
まず最初に思ったのは「ああ、俺は圧倒的にマジョリティ側の人間なのだなあ」ということ。主要人物の誰にも感情移入できない、というか映画の内部に身の置き所が無いことに気付いたのはワリと早い段階。出来るだけ「マイノリティ」の側に身を置きながら見ようとすればするだけそのギャップを痛感するし、自分の立ち位置が差別側に圧倒的に近いことに気づいてしまう。紙一重だ。「多分俺は差別する側の人なんだな」と思わざるを得ない。
「minoradio」なんて名前使ってる以上、俺の中二病は自らをマイノリティの側に置きたがってるわけだけど、所詮若干マニアックな趣味嗜好(しかも浅い)を持ってるにすぎない。それによって差別されたり生活を脅かされるような「マイノリティ」とは程遠い。そこに気づかざるを得ない気持ちに持ち込まれたのが、大きいことの一つ。
俺の同性愛やゲイカルチャーへの「理解」は所詮ポーズ、かっこつけ、ってかもう「理解」って言葉の時点でアウトなんだけど。悪ふざけで「ホモ」っていう言葉を使う連中と揉めた時期もあったけど、あんなの所詮偽善にすぎず、実際そう言いつつも俺自身は「ガチへテロ」を名乗ってたりとか、正直、以前から男性同士のセックスシーンを見るのは嫌いだったし、まあ、その程度。
ところがね、この映画でのポールとルディのベッドシーン、まあ露骨にセックス描写があるわけではないんだけど、それは凄く素直に観れたし、当り前のラヴシーンとして感じられたのね。これがシールの隅っこをカリカリやり始めた段階。

これ完全に映画をダシにした自分語りじゃないか。レビュー的要素、無いな。
せめて音楽の話を書く。原題はディラン(というよりザ・バンド)のI Shall Be Releasedの歌詞から。歌詞は全体に重要で、劇中で、特にルディが歌う(口パク含む)曲はストーリーと密接に絡んでいる(勿論字幕も出る)。I Shall Be Releasedは終盤で歌われるんだけど、アレンジがかなりしてあったから一瞬この曲だって解らなかったな。
音楽ジャンルの使い分けが徹底されていて、ゲイクラブでルディと仲間たちが(口パクで)歌い踊るのはディスコミュージック。でもコレはルディが本当にやりたい音楽じゃなくて、後半のナイトクラブで歌うのはジャズ(ブルーズ)で、詞も内面を掘り下げるようなものになっている。で、マルコの母と愛人のセックスのBGMが一貫してT.レックス(笑)この辺の使い分けがまあ類型的というか、良く言えば解りやすいのだけど。にしても後半の一番最悪のシーンで俺の大好きなBuick Mackaneが使われてたのにはショックだったぞ(笑)
最後に一番の余談として、ルディとポールがエリック・アイドルとジョン・クリースに見える瞬間が何度かありました(笑)
0 件のコメント:
コメントを投稿