2014年11月20日木曜日

T.Rex

 何度も強調しているけど、俺はバンドとしてのT.レックスが好きなのであって、マーク・ボランのファンというわけではない。勿論マークは大好きだけど、世間一般のイメージ、つまりT.レックス=マーク・ボランとは捉えていない。あくまで俺はバンドが好きなのだ。時代によって2〜5人編成になるけど、マーク以外のメンバーは決してサポートではなくて、彼らはバンドだったと思っている。勿論、俺が一番好きなのは黄金期の4人。マーク、ミッキー・フィン、スティーヴ・カーリー、ビル・リジェンドの時代だ。


 ミッキーは、スティーヴ・ぺリグリン・トゥックの後任としてティラノサウルス・レックスに加入。多彩なマルチプレイヤーだったトゥックと違って、基本的には絵描きであり、パーカッションプレイヤーでさえもなかった。トゥックの後任だから初期の写真などではパーカッション以外にもドラムやベースを演奏しているものもあるけど、勿論パーカッション以上に素人。論外、というレベルの演奏をしているところはBBCセッションの音源などで少し聴くことが出来る。

 彼はいったいバンドに於いて何をしていたのか。メイン楽器であるコンガは賑やかしレベルでぼこぼこ打ち鳴らすだけ。ヒール&トゥとかオープン、クローズとか、基本的奏法を学んだりもしてないんじゃないかな。スラップっぽいての動きを時折見かけるけど、サウンドはオープンとあまり変わらない。いや、あんまり音量上げてもらえないからそんなちゃんと聴きとれないのも事実だけど。

 そう、彼の音はフィーチャーされない。ステージでは基本的に全曲で芸の無いプレイを聴かせているが、会場によってまちまちであるものの総じて音量は低めのミックスだ。時々コーラスもしているけどちゃんとハモっていう気配も無いし、こちらも(スティーヴ・カーリー共々)音は小さめだ。そして、スタジオ盤ではもっと悲惨で、全くミッキーの音が聞こえない楽曲がしばしば、いや、むしろ大半だと言ってもいい。特に後期に於いてレコーディングはされたがミックスで消されたり、ほかのプレイヤーの(まともな)演奏に差し替えられたりもしたという。

 それでもミッキーはT.レックスのナンバー2であり、マークのパートナーだった。彼の存在感はマーク以上に「グラムロック」を体現していたし、何もしない、ある意味お荷物でさえもあったがマークの精神的支えの一人でもあった(その辺の具体例を示す資料は少ないが、「そうだった」という証言はしばしば聞く)。Zink Alloy〜Zip Gunの時期、マークの迷走とミッキーの不調→脱退が重なるのは偶然ではないのかもしれない。そして、同時期に表れたグロリア・ジョーンズがミッキーに代わりマークを支えていくことになる。


 T.レックスの1stはマークとミッキー(+トニー・ヴィスコンティ)で作られたが、バンド化を図るにあたってまずベーシストが迎えられた。スティーヴ・カーリーを加えた3人での演奏はやはり初期のBBCセッションや、ビート・クラブの映像などでも聴くことが出来る。

 カーリーは良くも悪くも普通の人だった。演奏はそこそこ手数が多くて微妙にテクニカルにも聞こえるけどまあ中の上、まで行くかな?って感じ。だけどメロディアスで印象的なラインを弾くので、結構曲のアクセントとして機能している。マークが細かいフレーズまでサジェスチョンしたとは思えないから、この辺はカーリーのセンスだろう。ビート・クラブでのJewel終盤のアドリブソロは特に印象的。ってか、アレで俺はカーリーのファンになった。

 スティーヴ・カーリーの中庸さはステージで活躍する。他のメンバーの不安定さを彼の堅実さが支える、ところまで行かない程度に下手なのがT.レックスのステージにおける醍醐味だ。マークはわが道を行き暴走気味、適応能力の無いリジェンドはあたふたとおいてきぼり寸前になりながら追いかける。勿論ミッキーは一切あてにもならないし役にも立たない。そんなバラバラのバンドを中庸で安定したベースプレイで繋ぎとめようとする……のだが、バンドの崩壊速度に彼の能力ではとてもじゃないけど追いつかず繋ぎとめきれない、そこがいい。そして、その崩壊寸前状態にこそT.レックスのグルーヴがある。

 そんな頼りないドラマーのビル・リジェンドはカーリーより少し遅れて雇われた。彼のドタバタして少し不安定なリズムと、つんのめり気味に入ってもたり気味に出ていくタム回しは特徴的で、マークが前、カーリーが真ん中、リジェンドが後ろにいるような状態で生まれるグルーヴが初期のT.レックスを印象付けていると言っても過言ではない。

 リジェンドの頼りないイメージは主にテレビ出演時、口パク演奏の場で発揮される。そもそもT.レックスのレコーディングはあまり曲を覚える暇も無いままマーク主導でガンガン進められ、ドラムなんかは後からこうしたかった、とか色々あったような証言もあるのだけど、そんな事情もあり、彼は恐らくレコーディングで自分が叩いたフレーズをちゃんと記憶してないんだろうね。その結果、自分のプレイに合わせて当て振りをする状況になると彼は困ってしまう。それでもキース・ムーンやジンジャー・ベイカーみたいに、合わせる気なんか全然無しで堂々と出鱈目動けばまだいいものの、半端に真面目なもんだから、不安そうな表情で、中途半端な腕の振りで、自身無さげにバックの音に着いていくしかない。その姿はひたすら情けなく、頼りない。

 リジェンドは(オリジナル)T.レックス唯一の生き残りだ。マークは言うまでも無く77年に事故死、初代パーカッションのトゥックも80年に「さくらんぼの種をのどに詰まらせて」死去、カーリーも81年にポルトガルで客死、ミッキーも肝臓病で03年に亡くなっており、14年現在「Legend=伝説」の名を持つ彼が唯一、当時の伝説を語れる立場にいる。

2014年11月19日水曜日

Robert Plant / Lullaby and... The Ceaseless Roar

 Led Zeppelinが再結成されない影の主犯はジミー・ペイジだった、という衝撃の事実。

 プラントのソロを聴いていると、その傾向がPage & Plant前後で分けられるのは意外に簡単に気付く。Page Plant名義での1stではKashmirで確立した世界を更に広げたようなサウンドが展開されていた。思えばZep時代にも、ペイジとプラントはボンベイへの旅行中にFour SticksやFriendsを現地ミュージシャンと再録していて、それは言わば「第一期Page & Plant」と呼べるのかも知れない。ともあれ、アルバムはアジアや中東、加えてケルトの香りも纏ったサウンドでほぼ統一されていた。

 しかし、Page & Plantがバンドとして活動を続けることになり、ツアーを行っていくうちに状況は変化を見せる。録音時のメンバーをフルでツアーには連れて行けないし、同作はZepのリアレンジが主体だったため、新曲はあまりない。そうすると、勢いツアーは「Zepの曲をエレクトリックサウンドで演奏する」という部分が強くなっていく。それは、「再結成ではない」という言い訳の説得力を凄い勢いで落としていった、

 かくして、Zep再結成に成り下がったPage & Plantだったが、ここで行った音楽的経験は大きな刺激となる。「これを活かして、新しい音楽を」と思ったに違いない。Unleddedに参加していたメンバーを軸にして新バンド、Strange Sensationを結成する。このバンドはエレクトロニクスと、トラディショナルなアコースティック楽器を共存させたグループとなり、メンバーが様々な楽器を操りながらまさにPage & Plantで中途半端にフェイドアウトした世界観を発展させていた。結局プラントはこのバンド名義(メンバーチェンジあり)でアルバムを2枚作る。

その後、Strange Sensationは一旦活動を停止し、パーシーはアリソン・クラウスとの活動や、何故か突然Band of Joy名義(再結成ではなく、完全な新バンド。Strange Sensationのメンバーは不参加)での活動を続けていたが、2012年以降はSensational Space Shifters名義で、ドラマーが代わったが事実上のStrange Sensation再結成(活動再開、と呼びたい)で活動を始めた。

 で、最新作が今年出たので買ったのだけど、大傑作。説得力がもう全然違う。そりゃあ、Zepの再結成もなかなか凄かったのだけど、あれは説得力というか余裕の余興で、全力で「俺の音楽」という感じはなかった。

 今回のキーマンの一人として、アフリカのガンビアという国から来たJuldeh Camaraがいる。現地の民族楽器である1弦のフィドル(Rittiという楽器らしい)のプレイヤーである彼はSSSのメンバー、Justin AdamsとJuJuというバンドもやっていて、その人脈での参加のようで、Adamsもまた、複数の民族楽器をプレイする。

 こういった民族音楽の要素を完全にバンド内に取り込んで、以前より更に強化したのと同時に、ベースのBilly Fullerがプログラミングも担当していて、エレクトロニックな響きもアルバムには多々登場する。だから、全体にはアコースティックなんだけどどこか冷徹な空気も流れる、柔らかいバラードでも何処か硬質な雰囲気のある、不思議な感触のサウンドになっている。なんだか、神話の時代と21世紀が同時に来たみたいだ。勿論、この傾向はStrange Sensation時代から持っていた物なんだけど、アルバムが出る度に深化している印象がある。「俺の音楽」が強く、深くなってるのだ。

 余談だけど、こういうサウンドの傾向はベックとか、ザ・バード&ザ・ビー(イナラ・ジョージのグループ)とか、ダーニ・ハリスンの音楽とかにも感じていた。でも、年の功か、プラントのが一番しっくり来るな。

 プラントはもうハイトーンでシャウトしたりしないし、むしろ抑えたトーンで、囁くようなシーンも多い。出ないから演らないんじゃないことはZep再結成で証明した。今の音楽にはそれは必要ない。ハードロックで叫ぶ所なんかとっくに卒業したのだ。いまだにソレを求める成長しないファンやペイジに関わってるヒマなんか無いのは凄く良く解る。

2014年11月17日月曜日

365日のシンプルライフ

 俺はコレクター気質だし、物欲の虜であって、部屋にモノが多いことではこの映画の主人公にも引けを取らないだろう。だからなんかの参考に……とか思ったわけでもなく、テーマ的に面白そうだったし、予告編で、冬の深夜、フィンランドの街中を全裸で走るシーン観たら笑っちゃって、あとはもう観るしかないじゃん?

 コレはドキュメンタリー、ではないのかな?登場人物はすべて実名で、監督であり主人公のペトリと、その家族、友人、恋人が本人の役で出演している。映像も、この「実験」を本当に記録したものに見えるシーンもあるし、映画のために演技して取ったものもあるように見える。恋人といるときのにやけ顔はリアルだし、彼女のことを聞かれてもいないのに友人に語って薄いリアクションをされるシーンなんかも、脚本としては書けるシーンじゃないように見える。逆に、演技ではないけど倉庫の内側から撮ったシーンなんかは映画用の追加撮影かな、と思ったり。何にしても、映画の多くの部分に彼自身が記録として撮影したものが使用されていることは間違いなく、俺はとりあえず、セミドキュメンタリーだと思って観た。

 主人公(脚本、監督でもある)が自らに課した「実験」には4つのルールがある。公式サイトでも見れば書いてあるけど、いちおう記しておこうか。

(1)持ち物をすべて倉庫に預ける
 本当に「すべて」だから全裸から始めるのが馬鹿馬鹿しくて良い。倉庫まで拾った新聞紙を使うのは、アリなのね。

(2)1日1個だけ持ち帰れる
 コレは補足が必要か。「1日に持ち帰れるのが1個」ではなくて、「365日で365個持ち帰れる」と言う方が正確だ。つまり、3日倉庫に行かなければ3日後に3個持ち帰れるのだ。だから彼は「机があったら椅子が必要になる」みたいな理由で複数のモノを持ち帰ったりも、する。だけど「前借り」は駄目なようで、例えば今日2個持ち帰って、明日行かないってのは不可、と言うコトのようだ。

(3)1年続ける
(4)1年間何も買わない
 持ち物になるようなモノは買わない。食料品や、新聞はアリのようだ。
  
 そういう生活してると、なんか「何も持っていない」って状態に意義を感じ始めるみたいで、50個持ち帰った時点で「もう何も要らない」って思ってしまったのが凄かった。でもその気持ちは少し解る。一週間一桁ツイートしかしてなくて、たまたまある日ちょっとしたリプしたのを切っ掛けに二桁超えちゃったときの悔しさ、とか……ちょっと違いますか。
 結局必需品はそのくらい、もう少しちゃんと生活するためのモノを足しても100番目くらいまでに揃っちゃうのね。だから55番目くらいから釣り道具とか、趣味のモノが顔を出し始める。面白いのは、パソコンは23番目に持ち帰ってるんだけど、携帯は82番目(パンフ裏面のリストより)。これは友人や家族等とのコミニュケイションに支障をきたしはじめた、って描写もあるんだけど、それでも3ヶ月近くどうにかなってるのは凄い。

 気になるのは、96,97番目と135〜163番目にレコードを持ち帰ってるんだけど、リスト見た限りタンテやオーディオを持ち帰ってる気配がない。インテリアとして持ってきたのかな?

 途中まである程度フィクション、と言うか、役者が出てると思っていたのでおばあちゃんが怪我をしてから老人ホームに入るって話になるまでの流れが切なかった。おばあちゃん、凄くいい人だし聡明だし可愛い。ペトリに色々アドバイスするんだけど、すべてが的確で、大切な話なんだよね。あとは冷蔵庫。ちゃんと伏線になって繋がってくるのが凄くて、まるでフィクションみたい。

 逆に「ああ、記録映像使ってるんだな」って思ったのは、彼女と正式につきあい出す前の映像には彼女の顔が一切映らないこと。気を使って撮影してるんだね。ラスト前に、二人で倉庫にやってくるシーンで遂に顔が出る。可愛い子捕まえたねえ。

 フィンランドでは、映画公開後彼の生活を真似してみたり、ある程度の期間モノを買わないことに挑戦する人が続出したようだ。俺もエンドロールに流れる365個のモノ(フィンランド語で書かれてるからなんだか解らないんだけど)のリストを見ながら、自分の生活を少し変革させるのも必要だろうなあ、と思っていた。確かにモノが多すぎる。少し整理しなくちゃな。

 この日は映画の割引がある日だったからもう一本見ることにしていて、次まで時間があったから横浜駅に戻ってフラフラした。そして、早速我慢できずに自転車のパーツやらCDやらレコードやら買い込んでる自分の姿が、そこにあった。

2014年11月13日木曜日

Paul McCartney & Wings / Band on the Run

 RamとBand on the Runは奇妙な関係にあって、前者はポール(&リンダ)名義での事実上のプレ・ウイングス作品。後者はウイングスの名を借りた事実上のポールのソロ作。ある意味で裏表の関係。だけど後者はバンドっぽくて、前者はパーソナルな匂いがする。

 俺は基本的に「バンドマジック」というのは「バンド名」にも宿ると思っていて、それはピートとロジャー二人だけが生き残ったフーを見たときに思いを強くしたんだけど、要するに、バンドというのはメンバーが「バンドであろう」と思ったときに成立すると思っている。だからRamはデニー・サイウェルとヒュー・マックラケンがどれだけ奮闘しようとあくまでポールとリンダの作品だし、Band on the Runはポールのワンマンレコーディングにデニーとリンダが「参加した」状態で作られてもバンドの音楽として成立しているのだ。

 そういえばBand on the Runがまさに「バンドが逃げた」状態で作られた、っていう言及がされてるのを見た記憶がないのだけど。コレは余談。

 レココレの特集では「バンドがいないからあえてBandというキーワードに思いを込めた」というような(うろ覚え……)ことが書いてあったんだけど、コレはさっき書いた「バンド名マジック」と同じ意味だと思う。作られ方も多分Ramに近くて、ポールのドラム(またはピアノ)とデニーのギター(またはベース)でラフなベーシックを録って、そこにオーバーダブ(半分以上がおそらくポール自身によるもの)を加えて行った筈。ただ、あくまでセッションマンだったマックラケンやドラマーのサイウェルと違って、作曲やプロデュースの能力のあるデニーと、ビートルズ時代から信頼を置いているエンジニアのジェフ・エメリックの存在がこのアルバムから「不安定要素」を取り除いているんじゃないかと思う。あとは、My LoveやLive and Let Dieの成功によるポール自身の自信の復活か。

 さっきは「参加した」という書き方をしたが、実はデニーの貢献は結構大きくて、というか大きくならざるを得なくて、実際、こういうとき以外に気が小さくなる面もあるポールは結構デニーに頼っただろうし、結果として、No WordsとPicasso's Last Words(あ、両方とも「Words」だ)ではデニーとポールがリードヴォーカルを分け合っている。

 とはいえ、音空間に漂う空気はMcCartneyやMcCartney IIに近いもの。Ramと違ってベーシックからかなり練られているんだけど、サウンドそのものはラフじゃないんだけど、どことなくデモっぽいんだよね。それは後に多くの曲(近年のライヴまで含めればMamunia以外の全曲)がライヴでバンド編成で再アレンジされ、プレイされているせいもあるのかもしれない。つまり、このアルバムの曲のバンドとしての完成形が後に提示されてるのね。

 特にLet Me Roll ItやBand on the Run、Jetの完成形は明らかにWings Over Americaでのもの。まあ、その分異形性が取り払われて普通のロックンロールになってしまった、という面もあって一概に「完成=最高形」では無いとは思うんだけど。

 Let Me Roll Itに関しては特に昔からこの論を言い続けてたんだけど、ジミー、ジョー参加後のヴァージョン以降のアレンジはあくまで「完成度の高いブルーズロック」で、レノンのCold Turkeyとの比較をするような音楽ではなくなっているとも思う。Cold Turkeyは逆にトロントでの普通のブルーズロックヴァージョンからスタジオ録音で異形の「レノンブルーズ」(俺の造語)に進化したんだけど。Let Me〜の場合はそれでも、One Hand Clappingで聴けるジェフ・ブリトンが叩くヴァージョンからジョーのドラムに代わる課程でリズムの側から異形性を取り戻してるのは面白い。

 そういえばBand on the Runも元々はポールの持病である「憧れのHappiness is a Warm Gun症候群」から産まれた曲の一つ(にして最高峰)だから、このアルバムは結構「レノンコンプレックス」から産まれた作品でもあるのかもしれない。この病気についてはまた別途語るとしたい。

2014年11月12日水曜日

電気グルーヴ / 塗糞祭 2014.11.8

電気の単独公演は初めて観る。初ライヴも去年のソニックマニアだったんだけど、実は(って言うコトもないが)カラテカくらいの時期からのファン、今や「古参」と言われる部類だと思う。今回は25周年と言うコトで懐メロツアーだというし、歴代メンバーやコラボレイターが登場するというので、楽しみにして挑んだ。いいんだ、懐メロだって。お祭りなんだから。

 定刻を10分程過ぎたくらいでスタート。オープニングは当然の如く電気グルーヴ25周年の歌だが、そのあとはカラテカ、UFOからの選曲がメインとなる。後のMCで卓球も言っていたが、「二度とやらない曲」が目白押しだ。いや、Twist of the Worldやケトルマンなんかこんな機会だって聴けないと思ってたよ。

 今回のツアーの特徴の一つは「ダラダラと無駄に長く意味のないMC」。瀧がなんか言うと卓球がいちいち要らんとこ拾って無意味な駄洒落言うからもう進まないこと。CMJKん時もまりんの時も「そろそろゲスト呼ぼうか」って言ってから何度脱線繰り返したか。もうね、ホント、糞面白いんだけど、鬱陶しい(笑)早く曲やれよ!ステージで雑談してんじゃねえよ!マイク使えマイク!(笑)DVDのオーディオコメンタリーあるじゃん、アレ。アレと同じ。本当に酷い。


 最初のゲストCMJKを迎えては1stアルバムの曲のリアレンジを3曲。「あー、この頃は矢鱈に歌詞に電気グルーヴって入ってたなあ」とか懐かしむ。今時のEDMっぽいサウンドは馴染みがないのだけど、思った以上に相性がいい。そして、初期の曲って結構ファンキーなんだな、って思う。Bingo!はやっぱり楽しいね。

 続いてはDJ TASAKAを迎えて浪曲インベダーとドリルキング社歌。後者はスチャダラパーの出囃子を兼ねていて、大阪、名古屋でも演ってたけどTASAKAが入ったのは東京公演のみだったようだ。ああ、KAGAMIもいればなあ……とは言わない約束、ってのはわかっちゃいるが。

 スチャを迎えては勿論電スチャのアルバムから。聖☆おじさんの後に瀧とアニの収集つかない猿芝居(アニが千円盗んだとか盗まないとか……)からアニVS瀧&瀧VSアニの「ラップバトル」に。結局アニは泥棒、という扱いのまま終わってしまう。

 今回散々話題にもなってたけど、目玉の一つとして電スチャによるブギーバック、というのがあった。卓球が小沢のパートを歌ったんだけど、なんとミドルエイトは牛尾が!ちょっと小沢に声が似てて笑った。そういえば、俺は2年前の今頃もスチャのブギーバックを観ていたのだ。あのときは星野源だったが。

再びメンバー+牛尾だけに戻って、比較的最近の曲を中心数曲。ゲストコーナー以外ではステージの階段に投影されるプロジェクションマッピングが素晴らしい。階段というモチーフでいろんなことをやってるのが、時折感動のレベルにまで。

 そしてこのパートのラストはモテたくて。事前に「今日だけのゲストがいるけど嬉しいものとは限らないよ」とか言ってたから誰が出るのかは予測してたけど、案の定この曲の2コーラス目からポリバケツの仮装をした天久聖一が。あまりにも酷い音程の歌唱で爆笑を誘う。しかし本人は仮装の出来にご満悦。1コーラスだけ歌って、とてもWOWOWで放送できないMCを言い捨てて、帰る。

 さて、ゲストコーナーの最後は勿論まりんなんだけど、その前のMCがまた長いコト!グダグダ遂に極まる。いや、もっと前から極まってるんだけど、極みを更新し続けるっていうね……いやー、ヒドかったな。瀧に物真似ネタ振ってやらせといてただ爆笑する卓球……客席もガチで引き気味だったのが最高だったな(笑)

 まりんは瀧の曲メドレーからスタート。正直このメドレーは若干ダレ気味に思えた。ストーンズのアメリカ公演のキースコーナーってこんな感じなのかしら。でもやっぱり富士山はどうしようもなくブチあがる。普段聴くには飽き気味だったけど、やっぱライヴでは凄いな。ロックンロールだよね。

 そしてママケーキ。オリジナル以上にファンキーにアレンジされてて、単純に最高にかっこいいファンクになってた。ラストは当然まりんがリードヴォーカルを担当。瀧と卓球も輪唱状態で被り、そして3人で謎の振り付け……まあ、個人的にはこのライヴのハイライトだったな。死ぬほど踊った。ってか、オレンジアナログで欲しくなっちゃったなー。

 まりんのパートは聴きなれたアレンジ(09年のリミックスベースか?)のグリラで再びブチ上げて終了。コレでラストでも文句無しくらいだけど、この後もまだ続く。再びゲスト抜きで、モノノケダンスやジャンボタニシ、Fake It!なんかを含む、ラストスパートにしては渋めの、しかしみんな嬉しい選曲が続く。個人的にはスマイルレススマイルが嬉しかったなぁ。レアクティオーンやパラシュートも聴きたい……とか思ったけど。

 俺はね、カメライフが本編ラストだって解釈したな。そしてN.O.もとい無能の人と電気ビリビリが、あえて662bpmのヴァージョンで演奏されたのこそが、事実上のアンコールだったんじゃないかと。そして、今の音で当時のアレンジを聴くともの凄く新鮮。こんなファンキーで踊れる曲だったのか!って思った。662はリマスターしてK/oonから再発して欲しいな。

 しかし、WOWOW入ってるのに「死体マニア」ヴァージョンで歌うんだからなあ(笑)ラスト曲、エンディング、二人がガッチリ握手するという最高の見せ場を作りつつも放送できないっていう事態を平気で作り出す。そんな25周年の締め括り。まあ、電気だしな。

2014年11月5日水曜日

イーダ

 観なくてもいいかなー、と思っていても観なかったら結局後悔するかも、と思うとかなり無理矢理でも観ないと気が済まない。観ないで後悔するなら観てがっかりした方がいい。そう思って、かなり無理矢理観に行ったのがこの「イーダ」という映画。タイミングを逃してるうちに近場で最後の上映館が終わろうとしていたので、平日にわざわざ行ってしまった。「どうしても」という映画ではないのに。

  ジャズが印象的に使われている、という程度の薄い動機で引っ掛かったので、実際よく考えるとそんなに深い興味が無い。だから公開始まってもだらだら先延ばしにしてしまっていたのね。でも何故か観なきゃいけない気がして。

 時代設定が60年代初頭で、ナイトクラブのシーンではジャズとポップソング(英国の最新R&Bよりちょっと野暮ったい感じなのが絶妙)がバンドによって演奏される。そこでイーダが惹きつけられるのがコルトレーンのNaima。俺は「あんまり上手くないな」って思ったんだけど(笑)まあ場末のキャバレーバンドだからある意味それもリアリティだろう。そういえば「サックスの音色が80年代っぽい」っていう評があって少し笑ったんだけど、俺もドラムのパーツ(特にラグの部分とか)が50〜60年代製には見えないな、って思ってた。古い時代の映画、機材選択は難しいよね。リアルに見せるためには「新品のヴィンテージ機材」が必要なんだから。

 お馴染み閑話休題。

 正直、難しかった。フランシス・ハに続きモノクロ映画を感じ取りきれないパターンだ。表現が多分繊細すぎるんだよね。先日観た「悪童日記」も静かな映画だったけど、それ以上に静か。セリフは極端に少なく、表情や状況を読み取らなきゃいけない場面が多い。まあ、ガサツな俺には向いてないよね。だけどモノクロってのがそのために効いてるな、とは思った。音楽は叔母さんのかけるレコードとナイトクラブのシーンで意図的に派手に表現されている感じ。コントラストを作ってるんじゃないかな。


 セリフが少ないのはイーダ役が素人だから、と最初は思ったのだけど、それは違うよね。セリフの無い演技の方がむしろ難しいんじゃないかな。特に、何回か出てくる落ち着かない感じの演技が秀逸。なんていうかねー、なんか、あるじゃん。その場で目の前の出来事に対峙した方がいいなーと思いながら出来なくて、逡巡しつつその場を立ち去るんだけどどこにも居場所がなくて、って言う、アレですよ。凄い伝わるんだよね。あればっかりは凄い。無表情なのも素人ゆえのものではなくて、ちゃんと無表情の演技だし。そういえば余談だけど、さっき対比した悪童日記の主役(双子)もプロの俳優じゃない。同様に無表情の演技が印象的だった。どっちも大戦と東欧っていう共通点もある。

 それから「間」が多い。食事のシーン、車に荷物を載せるシーン、それにイーダの祈りのシーン。テンポ感のいい映画を観慣れていたから少したるく感じたけど、これも静寂の表現の一つなんだろうな。特に印象的だったのがイーダが物思いにふけるシーン。いかにも「考えてますよー」って演技じゃなくて、ひたすら無表情で意識が内面だけに行ってる感じ。すごく大事なことと考えてもしょうがないこととつまんないことを同時に考えてる感じ。


 画面構成も「間」の表現なのかな。人物が右(または左)下に配置されて空間が凄く強調される画が多かった。で、それを「イーダと神をフレームに収めている」って解釈があって一つの考えとして納得。確かに、彼女のアップのシーン、中央に収めたシーンなんかは「神と別行動している」って捉えられるところが多い。なるほど、でした。

 叔母のヴァンダは薄々知っていた過去に向き合いきれず、命を絶つ選択をした。イーダは知らなくて済んだ筈の過去と向き合い、今までの生活と正反対の俗世を知り、自分と正反対の他者を知り、解ろうとして、知らなくて済んだ筈の未来の選択肢を垣間見て、そこから意思を持って自分の信じる未来を選択した。具体的な選択肢は画面には示されない。修道院に戻ったという解釈と、また別の道を歩みだしたという解釈と、どちらにも説得力があるけど、既に純潔でもなく、かといって俗世に塗れてもいない彼女がどこかに所属したり帰依したりできる気がしないんだよね。少なくとも、ラストシーンで一人歩く姿からは聖職者として一本道の単純な未来はイメージできなかった。

2014年11月4日火曜日

トーべ・ヤンソン展、他

 日記っぽい話を書く。「っぽい」ので日記ではない。しかも今日の話でさえない。ある日の日記っぽい話だ。

休暇を取ってトーべ・ヤンソン展を観た。画家としてのヤンソンに焦点を当てた展示。勿論ムーミンの挿絵もあるけど、油絵が多く展示されてるのが目を惹いた。個性的な絵ではないし、正直挿絵画での線画のスタイルの方が好きだけど、初期にはその線画に進む萌芽のようなものが見え、ムーミンを経て一時挿絵画に油絵が引きずられたり、抽象に向かった後に一旦油絵から身を退くんだけど、その後に描いた自画像が秀逸。色々呑みこんだ感じで、総括感があった。

 画を観ていて「ああ、俺には切り取る能力が欠けてるんだな」って思った。広角や俯瞰でばぁーっと見るのが好きで、そういう目線でものを見ているみたい。で、絵を描いたり、写真を撮るときに一部を切り取って、フレームに収めるってことが苦手。見せたいところを切り出す、ってことが苦手なのね。それは実は文章も同じで、アレもコレも書きたくて長くてまとまりのない文章になる。

 ジャック&ベティで「イーダ」を観た。余白の多い画面構成を見てフレームの件、更に思った。そのあとネットで意見を拾ってたら「余白はフレームに神を収めるため。イーダが自分の意思で動きだすシーンは中央に彼女が収められる」って言うのがあって、まあ全てがそうじゃないんだろうけど、納得。で、今度は映画からそういうものを読み取る能力にも欠けてるよなぁ、って思ったり。まあ、映画慣れしてないから仕方ないっちゃそれまでだけどね。

 たけうま書房という古本屋で「日本のポータブルレコードプレイヤー展」というのをやっていて、観に行った。ジャック&ベティのすぐそばじゃないか。映画を観るまで暇だったりするときにふらふら歩いていたこともある通り。こういう面白そうな店を見つける能力も衰退してしまった。偶然で行きあたるのも下手糞になったなぁ。

 サブカルチャー系に強そうな品ぞろえ。そんな店内に可愛いポータブルプレイヤーが大量に(108台!)並ぶ。展示もお洒落で、特に正方形の棚に並べたのはもうこの棚ごと欲しい、って感じだったな。楽しい店。また行きたい。

 伊勢佐木町の安い中華料理店で昼飯を食う。美味しいし安いしボリュームもあるのに空いてる。平日の、昼休み少し外した時間だからかな?しかし、量も食えなくなったなぁ。

 書店やレコード店を冷やかして帰る。充実しつつも、自分という個体の衰退を強く感じた一日。

2014年11月3日月曜日

FRANK -フランク-

 アンダーグラウンドなロックバンド、リーダーは常に巨大なマスクをかぶっている。そんな要素だけでも期待を膨らませるには充分な予告編を観た単純な初心者映画ファンはすぐに惹き付けられ、公開を心待ちにして、封切り初日に観に行ってしまった。これもまた、映画ファンとして初の体験である。

 音楽レビューっぽくバンド(ソロンフォルブス)のメンバーから紹介する。主人公はアマチュアミュージシャンで、偶然からバンドに参加することになるキーボーディストのジョン。日常を素材に自作曲をコンピューターで制作する序盤のシーンだけで彼の平凡な才能が描写される。この部分や後半でフランクに披露するオリジナル曲のパッとしなさが絶妙で、平凡な才能を持った作曲経験者はこれらのシーンだけで心臓から太腿くらいまでの皮膚と筋肉がざわざわすることは受け合い。ましてやジョンの自信ありげな表情や発言をセットにして見ては。

 ギタリスト兼ベーシストのバラクは神経質そうなフランス人。この手のアンダーグラウンド系バンドのギタリストとして完璧な風貌。勿論ジョンとの折り合いも悪い。女性ドラマーのナナは比較的きつさの少ない性格で緩衝材的な面がある。ちなみにこの人、俳優ではなくプロのドラマーで映画は初出演。ジャック・ホワイトやジョン・フルシアンテとの共演経験もあるようで、実力派じゃないか。プレイスタイルも独特で、なーんとなく「女ジョーイ・ワロンカー」って雰囲気も。。

 自殺未遂を起こしたメンバーの代役としてジョンをバンドに誘ったのがマネージャー兼エンジニアのドン。ステージには立たないがメンバーの一員のような描写(実際、初代キーボードでもあった)のされかたはピート・シンフィールドなどのノンミュージシャンもイメージさせる存在。精神の疾病持ちで人形にしか欲情しないというキャラ設定ながらジョンと並ぶ常識人として描写され、それだけに最期のシーンが衝撃的。

 映画とバンドの中心人物のひとり、クララはシンセサイザーとテルミンによるノイズ担当。ソロンフォルブスの事実上ナンバー2。エキセントリックな性格で、自分だけがフランクの真の理解者だと信じ、彼に対しては深い愛情と信頼を、ジョンに対しては憎悪に近い感情を抱いている。凄くいいキャラクター。入浴中のジョンと(何故か勢いで)セックスしてしまうシーンの色気の無さも白眉。

 そしてフランク。巨大な仮面を絶対に脱がないバンドのシンガーで、ソングライター。ソロンフォルブスのアバンギャルドな音楽性もコンセプトも全て彼のものではあるが、実際には意外に成功を求めたり、ジョンの音楽に理解を示したりする面も持っている。が、感覚が(音楽的に)ナチュラルに狂っているのでジョンの曲にアドバイスするうちに全く別物にしてしまったり、無理に書いた一般受け狙いの曲がやっぱり狂ってたり、っていう人。名前からしてザッパがモデルかと思ってたら、かぶり物設定含めてフランク・サイドボトム(ちゃんと聴いたことない)をベースにダニエル・ジョンストン+キャプテン・ビーフハートなんだってね。

 メンバー紹介だけで長くなっちゃったな。
映画の主題はフランクの正体、何故彼が仮面をかぶっているのか、かぶらなければならなかったのか、というところのように紹介されているけど、どうも違うんじゃないかという気がするし、仮面(内向性)と才能の関連についてはラスト付近で両親によって語られるとおりだ。


 むしろジョンのエゴの問題が主軸的に描かれている印象が強い。うだつの上がらないミュージシャンがカリスマ的なアンダーグラウンドバンドに加入し、大きな成功を夢見る過程でエゴが増大していく。レコーディング中にフランクに惹かれていく過程で自分がフランクをプロデュースできると勘違いを始めるジョン。「誰もがフランクにあこがれるが誰も彼にはなれない」というドンの言葉があるにも関わらずジョンは自分が対等になれると思いこんでいく。でも才気あふれるミュージシャン集団であるソロンフォルブスには彼の才能が無いコトは完全に見抜かれていて、だから最後まで決して本当の意味で受け入れられることはない。

 でもフランク自身は何故か彼の言葉を信じてしまうんだな。凡人であるジョンの、凡人ゆえの一般的感覚を取り入れることによってフランクが実は憧れる名声への近道となる、という想い。それは「成功=仮面の内に籠った心を広い世界に開放すること」への想いだったのかもしれない。

 でもそれをぶち壊すのはジョンだ。メンバーはフランクが「広い世界」に耐えられないのを知っていた。ナナに「狂っているのはジョンだ」と言われるが、エゴが肥大したジョンは(自分では気づいていないが)もはや「フランクの才能を世間に示す」のが目的ではなくなっている。「フランクを利用して自身が名声を得ようとしている」ことが言外に描かれるステージシーン。浮ついたMCを率先して行い、リーダーでシンガー(とはいえ、この時点ですでにバンドは二人だけだが)であるフランクそっちのけで自分の曲からステージを始めるジョン。結局ここで、大観衆とジョンのひどい音楽に耐えきれずフランクの精神は壊れてしまうのだけど、ジョンが自分の過ちに気付くのはもっと後。


 もう一つのポイントはネットの功罪。これは身につまされた部分だ。ジョンは登場時点からツイッターをやっていて、俺同様のネット中毒。で、アイルランドの山奥でのレコーディング風景も逐一ブログとYouTubeにアップしていて、本人はソロンフォルブスという素晴らしいバンドを世間に知らしめる手段だと思っている。だけど問題はそれをメンバーに無断で行っていたことで、その是非を巡ってバンド内の軋轢は悪化する。ジョンはYouTubeの再生数がバンドの人気の証、サウンドが世間に受け入れられた証だと勘違いするんだけど、フェスのスタッフには「たいした再生数じゃない」と言われるし、観ていた連中もバンドの音楽に惹かれたわけでなく「面白動画」として見ていただけということが解る。

 結局大雑把にいえばジョンは自己顕示欲を満たしていただけで、むしろ彼のやっていたことは余計なコトだった。状況こそ違うけど、実は俺自身数年前ちょっとつきあってた人に「ブログにプライベートなコトを書き過ぎる」と言われ、結局それが関係を壊す一因になった経験があるのでこの辺は見ていてキツい気分だった。

 でもなー、男女関係ならともかく、バンドのコトになるとむしろ「発信した方がいい」って方に流れるよなー。明らかに良かれと思ってやってるし、今の時代ソレが必要だと思う方が自然だし。一概にジョンが間違ってるとも言い切れないが故に、辛い。

 ラスト、フランク抜きの3人で演ってる音楽もいいし、そこにジョンに連れられ仮面を取ったフランクが現れ、仮面無しでも今までと変わらぬ才覚を感じさせるポップで甘美でアバンギャルドなバラードを歌い出し、そこにナナ、バラク、そして暫く遅れてクララ(ちゃんとステージにテルミンとモーグを用意している!)が入ってソロンフォルブスのサウンドが復活、気付くとジョンはその場にいない、と言う流れが最高にいい。全員が本来の「持ち場」を見出すラストはハッピーエンドと言っていいんじゃないかな。

 最後に音楽の話をちょこっと。

 勿論ソロンフォルブスのアバンギャルドかつ魅力的な楽曲も素晴らしくて、我慢できずサントラまで買った。まあ、劇中で聴く程良くはないと思ったけど(笑)でも、ジョンのしょぼい曲やフランクが大衆に迎合した中途半端な曲のような「駄目な曲」を解り易く書けるだけでも作曲のStephen Rennicksの才能がわかる。この人元々建築を学んでいたと言い、アバンギャルドな音楽が作れてサントラ作れて、って要素からちょっとピンク・フロイドも想わせる存在。フランクはシドだったのか!?

2014年11月2日日曜日

Simon Phillips

あの頃結局サイモン・フィリップスはフーのドラマーだったのだ。

 ザックが途中離脱して、スコット・デヴォースが参加した四重人格ツアー。商品化されたのはスコットのヴァージョンだった。ここでの彼の演奏は、ザックに比べてもよりキースのドラミングを再現していて、アルバムを聴きなれた耳には違和感が少なかった。ザックのドラミングは、キース的なフレーズも交えつつあくまで彼自身のオリジナルのスタイルだから、必ずしも従来のフーの曲にジャストフイットするようなプレイでない場合も多々あった。だけど、誰もが「ザックはフーのドラマーとしてふさわしい」と感じていた。

 フーが結成50周年、ラストツアーを行うにあたって、ピートとロジャーは再びザックを呼び戻す。

 スコットのプレイは確かに、フーらしく聴こえるような、キースっぽいスタイルを再現していた。が、そもそもフーのメンバーに「バンドに合わせて誰かを模倣する」ような人間がいただろうか?

 だいたいにおいて、オリジナルメンバー達が完全にオリジナル過ぎるプレイヤーで、誰一人他人に合わせる気がなく、誰かを真似したり、手本にした気配さえ希薄な連中なのだ。フーはルーツが見えづらいバンドと言われるが、それはピートの楽曲も、メンバーの演奏も全て元ネタが見当たらないからだ。

 キースが死に、ケニー・ジョーンズがドラマーの座に座った。ケニーもスモール・フェイシズ初期はキースとも共通する手数の多いプレイをしていたが、80年代頃はかなりスクエアなプレイヤーだった。それが、フーに迎えられて、フーに合わせて、キース的なプレイをしたか?一部のファンに不評なくらい、ケニーは自分のスタイルを貫いた。キースの真似なんか一度もしなかった。色々言われるけど、Who Are Youくらいからピートの楽曲はケニー的(または、サイモン的)なプレイを求めていたし、それはその時代のフーのサウンドとしてケニーを含めた4人が作り出したものだった。

 俺はサイモン・フィリップスには違和感しか感じなかったけど、スコットとザックのコトを考えてわかった。サイモンも、決して自分のスタイルを崩さず、フーの中に自分のまま収まろうとした。それは今になって振り返ればフーのメンバーの条件だったのだ。ピートもサイモンにキースの模倣なんか求めて無かった。サイモンはピートのDeep Endのメンバーだったから、きっと「そのまま演ってくれ、人真似なんかするな」って言われた筈だ。そして、そうじゃないとジョンやピートと拮抗したプレイなんかにならないのだ。俺の好き嫌いなんか関係なく、サイモンはフーの新ドラマーとして求められる仕事をしたと思う。実際、彼のプレイをキースの後任としてふさわしいと感じるファンも数多くいたのだから。彼はこなしたし、受け入れられていたと思う。

 ちょっと勘違いされやすい文章になっちゃったけど、スコット・デヴォースの仕事を貶める意図もない。スコットにここで求められるのは「ザック、またはキースの代役として四重人格ツアーを成功させる」プレイだった筈で、スコットは「代役でありサポートメンバー」としての仕事を完璧にこなした、と思っている。

 ピノもジョンの真似なんかしてないし、ザックもそうだ。オリジナルメンバー以外ではケニーが唯一の正式メンバーであり、サイモンもピノもザックも一応サポート扱いではあるけど、準メンバー的に見られる理由はそこにある。フーであるからには自分でなければならない。誰かの真似であってはならない。自分自身がその誰か(Who!)であることが重要なのだ。

2014年10月31日金曜日

サンシャイン 歌声が響く街

「サンシャイン 歌声が響く街」は正直何で見たのかよくわからない。スコットランドが舞台でポップミュージック系のミュージカル、なんかハッピーな感じがする、あとは英国制作繋がりでFRANK観た直後だった、とか色々条件が重なって、うっかり観てしまった感じ。

 なんてーかねえ、要するに普通の男女のカップル(壮年夫婦含む3組)が普通に恋をして(既に結婚していたりつきあっているもの含む)普通に軋轢や障害が起こって、普通に壁を乗り越えて、普通にハッピーエンド、そういう内容の映画って要するに俺には向かない。ここでバルフィとかシンプル・シモンを引き合いに出すと誤解を受けるとは思うんだけど、やっぱりハッピーに暮らせるのが当り前の人々が当り前にハッピーになりましためでたしめでたし、では引っ掛かりが無さ過ぎる。それならそれでどれだけエンターテインしてくれるのよ、って訊けば「ミュージカルです。歌って踊ります」えーっ?それだけぇ?

 主役と言えるカップルが3組あって、まず今年銀婚式の壮年夫妻、その娘と、彼女の兄の親友(軍隊で一緒だった)、映画の序盤ではその兄は独り者だけど、妹の同僚を紹介されて付き合い始める。で、まあ持っているドラマの量からして今書いた順番の重みでストーリーは進行している、ように見える。

 最初の40分は彼らのハッピーな姿、ハッピーになっていく姿を延々描写し続け、何も展開しない。兄貴に彼女が出来るシーンが強いて言えば展開だがパーティで知り合ってあっという間に付き合うから展開らしい展開にも見えない。だらだらとハッピーに暮らし続け、そんなもんわざわざ映画にするなよ、と思う。後半の波乱への伏線としてお父さんの隠し子(娘)登場のシーンが出てくるが、重要なシーンとは言え退屈を紛らわせてはくれない。

 中盤、両親の銀婚式でようやく、しかし唐突に話は動く。隠し子から受け取った彼女の「両親」の写真を妻の方が発見してしまい、その場で夫婦の危機が訪れる。娘は娘で彼氏の公開プロポーズを断ってしまい、彼をからかった男と喧嘩が起り、そこに兄ちゃんがついでに加勢してそれを止めようとする彼女に手をあげかけてしまいついでにこのカップルにも軋轢が発生する。取ってつけたような急展開を取ってつけた流れにこっちは呆然とするのみだ。

 さて、仲直りのパートだ。兄ちゃんカップルは切っ掛けが些細だったから拍子抜けするくらいあっさり仲直りする。だいたいこのカップル揃って瞬間湯沸かし器でつまんないコトで喧嘩してあっさり別れ話になって簡単に復縁する。現実にはこういう馬鹿いっぱいいるけど、映画で見ても鬱陶しいだけだ。妹カップルは仲直りには至らず、妹はアメリカへ、彼氏はやけくそで軍に戻る、という分かれっぱなし展開を見せる。そして両親は、夫が唐突に卒中かなんかで倒れたのを機に看病からの仲直り、という典型的な問題解決抜きでの終結を見せる。と言うわけで、普通はここで妹カップルの仲直りに主眼が移ると思うじゃない。

 しかし、ここで兄ちゃんカップルにもう一回危機が。ある意味コレが最大のどんでん返しだった。

 またしても些細な会話から仲違いをしてしまう二人。出ていく彼女を追いかけ、なんとか捕まえて誤解を解こうとする(というより言い訳をする)とまたしてもあっさり怒りが解ける。そして喜びの歌とダンス!これぞミュージカルの醍醐味!大団円に相応しく、周囲を巻き込み大々的なダンスが……って、えー?あなたたちのシーンで終わりなんですか!?明らかに重みを置かれていた両親夫妻でも、妹カップルでもなく、引き立て役的に存在しているように見えた兄ちゃんカップルで大団円!?

 ちなみに妹カップルは、手紙のやり取りするシーンこそ出てきて時を経た後の再会を匂わせるもののハッピーエンド的描写は無いまま終わる。まあ、そういうリアリティなのかもしれないけど、この流れとミュージカルで半端にリアリティ出されても……

 お母さんの「顔」の演技は素晴らしかったです。人間、ハッピーな時は綺麗でも荒んだ時醜くなるじゃん。アレが演技で出せてるのは、凄いと思った。あと父ちゃんのセリフにケルト系民族っぽさを感じた。以上。

2014年10月30日木曜日

Kenny Jones

フーを最初に見たのはライヴ・エイドだったし、それで好きになったんだから俺にとってケニーは全然「フーに合って無い」ドラマーではない。シャープでタイトなドラミングは少なくとも80年代には凄く格好良かった。Won't Get Fooled Againのケニーのフレーズはいまだに俺がコピーするときにも混ざり込んでくる。

 それからキースのプレイを知ったわけだけど、勿論フーのドラマーとしてキースは圧倒的に凄くて、ああ、これが「本来の」フーなんだ、というのはちゃんと感じつつも決して「ケニーじゃあやっぱ駄目なんだな」と思ったことは無かった。無かった、というか、現在に至るまで一度も無い。

 それでも、ケニー自身の60年代、スモール・フェイシズ時代のプレイを聴くと80年代の彼はどうしてあんなに端正なプレイヤーになってしまったんだ?と思う。この頃のプレイを聴くとキースにも負けないくらい手数も多いし荒々しいよね。フーの頃は、やっぱりあの時代のフーの音楽に合ってはいるけど、キースの頃の曲を聴き比べた場合の「普通さ」は時にどうしても気になってしまう。特に16分音符でタムを普通に回す系統のフィルが結構多くて、コレがまあ、言ってしまえば野暮ったいんだな。

 ケニー・ジョーンズの特徴はやっぱり「どうしようもなくダサい」ということだと思う。とにかく野暮ったい顔つきもさることながら、ドラム叩いてる時のイマイチ堂々としない情けない感じとか、スモール・フェイシズ以降はどうしても目立ってしまう体躯の小ささとか、なんか変なパーマっぽい頭とか、どうしても佇まいがダサい。佇まいがダサい人がヤマハのドラムをスクエアに叩いていたらまあ、普通は格好悪く見えるよな。やむを得ん。

 でも、そんなケニーが物凄く格好良く見えた瞬間がフェイシズでのI Know I'm Losing Youのライヴ映像だった。しかもドラムソロ。ケニーのドラムソロなんか格好いいわけがないと思ったら、特別に難しいフレーズは叩かないし、ある意味ケニーのイメージ通りの「ダサい」フレーズのソロなんだけど、なんだか妙に格好いいんだよね。グルーヴだけでソロを構成してる感じもいいし、ダサいなりに完全に的を射たフレーズ(いや、実際にはフーでもそうなんだ)を叩き切る感じ。格好いいケニーを見たのはあの時だけだし、あれだけは素直に認める。格好いい。

2014年10月29日水曜日

Santana / Soul Sacrifice

旧ブログでもやったネタだけども。

 そこかしこで散々言っているけど、俺にとってサンタナとはマイク・シュリーヴとグレッグ・ローリーである。シュリーヴとローリーのバンドにカルロス・サンタナっていうギタリストがいるらしいよ、くらいの扱いであり、流石にそれは言い過ぎだ。

 と言うのもやっぱりサンタナへの入り口はウッドストックでのSoul Sacrifice、というよりこの曲のドラムソロだったからだ。いや、正確にはライヴエイドのPrimera Invationで、この曲も大好き(勿論ローリーもシュリーヴもいない)なんだけど、アルバムをちゃんと聴こうと思ったのはSoul Sacrificeだったし、この曲を聴いた瞬間、Primera Invationはこの曲の焼き直しだというコトに気づいてしまったのだからむしろ第一印象の方が分が悪い。もっと言うと80年代のドラマー、グレアム・リアはシュリーヴに顔がそっくりでプレイは彼をもう少し雑にした感じであり、人間まで焼き直し感があってそれはあまりにも失礼な物言いじゃないか。

 サンタナ1stのレガシー・エディションには初期ヴァージョンも入っているし、勿論スタジオ録音もあって、この曲は結構色んなヴァージョンが聴ける。初期ヴァージョンははっきり言って出来がよいものではない(ドラムソロ以外もね)。スタジオ版は端正に纏まっているけど、やっぱりこの曲の神髄はライヴだ。

 YouTubeではタングルウッドでのライヴも観れるけど、やっぱりウッドストックのヴァージョンは白眉。ドラムソロのメリハリはこっちの方が圧倒的だと思う。俺にとっての三大ドラムソロの一つだけど、それはこのヴァージョンに適用される。この映画でサンタナは一躍注目されたっていうけど、それはやっぱりシュリーヴの功績が大きいんじゃないかな。他のテイクもいいけど、やっぱこの時のシュリーヴは別格だ。

 

2014年10月28日火曜日

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

 アメコミ、特にマーヴル・コミックスは好きなんだけど、マーヴル映画は一個も見たことが無かった。そんな俺がマーヴル映画初体験するのがXメンでもアヴェンジャーズでもなくて、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーとは。

 チーム的にもキャラクター的にも予備知識はほとんどない。ヴィランイメージの強いドラックスが主人公側にいる?とは思ったけど、見た目が俺の知ってるドラックスとは違ったから同名の別人(マーヴルのキャラにはしばしば存在する)だろうと思っていた。ネビュラやサノス、ノヴァが出てくるのも知らなかった。むしろ興味をそそったのはサウンドトラック。スターロードことピーター・クィルの母の形見のカセットの収録曲が俺たちの琴線触れまくりの70〜80'sヒットなのだ。しかもメンバーがならず者ぞろい。ちょっと破天荒なノリが期待できる……と思って、仕事帰りにふらっと近所のIMAXシアターに出かけた。

 IMAXの巨大なスクリーンに対峙するのが俺と知らんおっさんの二人(三人と思ったらもう一人が出入りしてただけだったらしい)だけ、という客の入りには驚いたが、まあ周囲を気にせずノリノリで観れるというコトで良しとする。なんせ俺の意識ではコレは音楽映画なのだ。コトによっちゃあ踊る心づもりで来ている。

 オープニングからいきなりI'm Not In Loveだからもう、なんてベタなんだ!ってなったけどまあアメリカ映画だしな。舞台は1988年、曲はピーター少年(9歳)が聴いているウォークマンから流れているのだ。9歳でこの曲はシブくないか。意識して聴くと、捉えどころのない曲だよなぁ。


 ピーター少年は母と死別するやいなや何の説明も無く突如現れる謎の円盤に深い理由も無く連れ去られる超展開なんだけど、勿論この時点で形見のウォークマンと今わの際に受け取った包みは持ったまま。そのまま、やはり何の説明も無く26年の歳月が流れる。この辺のいくらでも説明できる流れを全部省略する粗雑さがアメリカン。この26年で地球のテクノロジーはテープの時代を終え、CD、MD、データへと移行している。恐らく宇宙のテクノロジーはもっと進んでいるはずなのだけど、26年後のピーターは26年間壊れなかったウォークマンと26年間ワカメにならなかったテープを聴き続けている。特別なものだからな。ソニータイマーが働かなかったのは奇跡としか言いようがあるまい。それともスペースソニーがサポートを続けているのだろうか。

 妄想休題。

 いや、ストーリーの解説しても仕方ないんだよ。シンプルな馬鹿映画だから。あらゆる映画と同じく、色々あってオーブを盗み出したり刑務所に入ったり特に計画も無く大暴れして脱獄したり色々あって仲間になったりオーブを売りに行ったりそれが大変なものだと解ったり仲間割れしたり絆を深めたりオーブが敵の手に渡ったり宇宙を守るヒーローになることに目覚めたり巨悪と闘ったり因縁の対決があったり絶体絶命に陥ったり仲間の犠牲で窮地を逃れたりオーブを取り戻したり辛くも勝利を収めたり英雄になったり軽口を叩きながらいずこへともなく旅立ったりするような普通のSFヒーローもののストーリーなんだよ。

 以上、完全なストーリー解説でした。以下、ポイントを挙げる。

 木が可愛い。可愛いし、圧倒的に役に立つし、異常なくらい強いし、万能だし、可愛いし、いい奴だし、可愛いし、可愛い。複数の人から「ちびグルートのフラワーロックを発売すべき」というアイデアを聞いたが、完璧すぎるアイデアだし、多分それスタッフも考えてた。または逆にフラワーロックから着想を得たか。商品はI Want You Backの音源付きで発売すべき。ちなみにこのシーンのグルートの顔の造形、明らかにジャクソン5時代のマイケルをモデルにしてるよね。

 「普通の」とは言っても主人公チーム全員が刑務所で知り合ったという基本的に犯罪者チーム。冤罪とかじゃないからね。明らかに犯罪でぶち込まれた奴らだから。やることは滅茶苦茶だし場当たり的だし力技だしまとまろうと言う気が全然無いし。ヒーローになる動機も正義の為というより要するに宇宙がヤバいコトになるとみんな死んじゃうじゃん、っていうシンプルなものだし。小悪党が巨悪の前で死にたくないから宇宙を守る、っていうのもまあ、極端ではあるのだけど。

 以前このブログで扱ったパシリム、シンプル・シモン、バルフィなんかにも共通する「ラヴシーンが薄い」要素がこの映画も。最初のガモーラへのキスは未遂に終わるし、終盤ではむしろピーターよりドラックスといい雰囲気にさえ見える。そもそも最初のキス(未遂)は愛情というより殆どナンパに近いノリだし、宇宙に投げ出されたガモーラを救うシーンでありそうなもののそれもなく。多分メンバー間に恋愛感情は無さそうなのが素敵。

 ヨンドゥが意外に美味しいし、いいキャラ。と思ったら役者が監督の親友らしいんだな。地上戦の異常な強さも開いた口がふさがらなかったし、ひたすら糞野郎の悪党を演じつつ最後偽のオーブ掴まされたのに気付いた時の笑顔!アレが良いんだ。「小僧、やってくれたな」的な。ホントに親代わりだったし、愛情を持って接していたんだろうなあ、と感じさせるシーン。

 コレクター(オーブを買い取ろうとする人物)が出て来たとき、なーんとなくパシリムのハンニバル・チャウっぽいな(似ているわけではない)、と思っていたらラストで爆笑する羽目に。やはり映画はエンドロールで席を立ってはいけない。

 ところでI Want You Back、ピーターのテープを模したサントラ「最強ミックスVol.1」(国内盤は出ていないがこの名で呼びたい)に収録されているけど、劇中設定だとVol.2の収録曲の筈だよね。本来のVol.1&2の全曲目を知りたい。Ain' No Mountain High Enoughも入ってるし、Vol.2は少し古めのR&B系の選曲だったのかな……と妄想するのも楽しい。ってか母ちゃん、あなたは死の床で一生懸命テープを編集していたのか。どんだけ音楽マニアなのだ。友達になりたい。

2014年10月26日日曜日

VHSテープを巻き戻せ! / ナニワのシンセ界

 渋谷で「VHSテープを巻き戻せ!」を観てから約2ヶ月、同じ気分になるだろうな、と思いながらも、題材への興味に打ち勝てず「ナニワのシンセ界」を観た。同じ気分になった、が。

 「VHS」は要するにノスタルジーを90分語り続けるドキュメンタリーだった。「自分たちはVHSで育った」「ホームビデオ文化が花開いた」「DVDになってない作品も沢山ある」異口同音に主張や思い出が繰り返し。さっき聞いたような主張が脈絡無く再登場する場面も多く、90分が長く感じる。飽きるんだよ。

 確かにデジタル化されずに消えた(ゴミのような)作品も山ほどあるのだけど、残念ながらあらゆる意味でビデオテープにはDVDやBlu-rayより優れた面が無い。アナログレコードとは違うのだ。彼らはひたすらノスタルジーを語り、そこから新たな文化が産まれる可能性は全然見えてこない。

 VHSでオリジナル(ゴミ)作品を撮り続けるおっさんが登場する。「VHSは手軽だから考えずに撮れ!撮り続けろ!」と主張するが、残念ながら今やデジタル機材の方が遥かに安価で、手軽だ。

 「シンセ界」も作りは似通っている。こちらはノスタルジー要素は抑え目にしてはあるものの、代わりに「大阪の文化」の主張が強く出ていて、やはり同様に似たような話題が繰り返し登場し、飽きていく。

 致命的なのは、大阪の、伝統に根ざした面や、人と違うこと、面白いことをしたがる性質、ハブとして様々な文化が集まってくる土壌、という部分を語るのに、東京との比較が具体的に為されないこと。彼らは「東京と違って」と語りたがるワリには、実際に東京のシンセ文化はどうなのか、という部分が一切見えて来ない。だからその辺の主張は空虚に見えてしまった。

 シンセ好きによるシンセ好きの為の映画、って側面は良し悪しだろう。基本的な説明はすっ飛ばして中核から入るから、この映画を切っ掛けに「シンセ界」に入り込む可能性は皆無に近い。完全に内側の人間だけがターゲットなのだな。だから音楽の話題は殆ど登場せず、あくまで機材の話に徹する。YMOだけ少し出てくるのには苦笑したけどね。

 とはいえ、VHSとの大きな違いは、アナログシンセサイザーは現役の機材、文化であるということ。彼らには「これを使ってやりたいこと」があって、それをやっている。この映画はアナログシンセサイザーの「今」を語っているのであって、ノスタルジーの話では無い。この差は大きい。

 だってさ、なんだかんだで観ててシンセのつまみグリグリ回したくなったもんね。久々にVolca引っ張りだして遊ぼうと思ったよ。

2014年10月21日火曜日

Paul McCartney & Wings / Red Rose Speedway

 最初に買った時、豪華ブックレット(ヌード付き)に演奏メンバーの詳細なクレジットがあったのが嬉しかった(すでにそういう性格だったのね)んだけど、気になったのは2曲にデイヴィッド・スピノザとヒュー・マックラケンがクレジットされてたこと。当時すでに彼らがRamで参加してたセッションマンなのは知ってたんだけど、何故かこの2曲を当時のアウトテイクだと認識できず、何らかの理由で呼び寄せて参加させたって思いこんだのね。デニー・レインが参加してないんだから気づいてもよさそうなものなんだけど。

 勿論この2曲(Get on the Right ThingとLittle Lamb Dragonfly)はRamのアウトテイク。多分気づきづらかったのは、Ramが直前のアルバムじゃなかったからだと思う。Wild Lifeに収録しないでこっちに入れた理由が解らなかったのね。

 そういう意味で考えてもまだ謎があるのは、そもそもRed Rose Speedwayは2枚組になる構想さえあったにも関わらず、わざわざRamのアウトテイクを引っぱり出していること。2枚組ヴァージョンの曲目は解っているんだけど、その時点でこの2曲は含まれているから、Ramで捨てたのを勿体なく感じていただけなのかもしれないけど。

 まあ、どちらも確かに良い曲だ。俺がこのアルバムで最初に気に入ったのがGet on the Right Thingだし、ウチの妹はLittle Lamb Dragonflyをフェイヴァリットに挙げていたことがある。少なくとも我が家では大人気の2曲だった、と言って間違いない。要らないデータだけどな。

 アルバム全体の空気感もWild LifeよりRamに近くて、多分レコーディング方法も近かったんじゃないかな。前作はウイングスのお試し録音的な色彩の強い一発録り、今作は再び、ベーシックをラフに録ってそこにオーバーダビングを施す形式。ただ、今回はバンドの為、ポールのコントロールが行きわたりきれない部分もあったと思われ、Ramの時より幾分ラフな仕上げになる。

 あと、Ram Onの二つ目のヴァージョンでBig Barn Bedの予告がされてるのもRamとこのアルバムの連続性を感じさせちゃう一因だよね。予告しといてWild Lifeじゃなくてこっちに入れちゃう、っていうのが、変な人だよなぁ。もしかしたらポール、リンダ、サイウェルで録った原型ヴァージョンみたいなものがRamの時点であったのかもしれない。

 そもそも、ポールが「曲がいっぱいある」っていうときは楽曲のレベルを無視してものを言ってることが多くて、実際このアルバムの2枚組ヴァージョンで聴くと、感触がLost McCartney Album(McCartney IIのオリジナル)に近くなる。インスト曲や妙にラフな曲がいっぱい入ってるんだよね。その片鱗は完成版でもLoop (1st Indian on the Monn)や、ラストの小粒メドレー(いや、俺は大好きだけど)に現れている。

 そういう意味では、好き嫌いは別としてもMy Loveはまさしく「画竜点睛」だったと思うんだよね。完成度って意味で明らかに飛びぬけてて、アルバム全体がピリっとする。だからってLive and Let DieやHi Hi Hiまで入れないあたりのバランス感覚も素晴らしいな、とも思うんだけど。

2014年10月19日日曜日

The Yardbirds

 ブルーズ至上主義者のエリック・クラプトンはヤードバーズにとって邪魔ものであった、少なくともバンドの進化の妨げになる存在であった、という解釈。

 エリック時代に残された音源の大半はライヴ。それ以外は2枚のシングルと、64年までに残された数曲のデモ録音のみ、ということになる。スタジオ、ライヴ共に基本的にブルーズ、R&Bマナーに則ったスタンダードな演奏で、勿論エリックの志向にも沿ったものだったと思われる。シングルのGood Morning Little Schoolgirlはかなりポップなアレンジになっているのだけど、これに対してエリックが異論を唱えた、という話も無いから、ある程度の割り切りはあったのかもしれない。

 ただ、おそらくバンドはもっとメジャーに、ポップに、そしてアーティスティックな方向に進みたかったんではないか。ポップとアーティスティックは矛盾しないのだけど、ブルーズを追求すること=アーティスティックな姿勢、と思っていたギタリストはこれを良しとしない。かくして、バンドはエリックを切り捨ててでも「ポップでアーティスティックな」グレアム・グールドマンによる新曲For Your Loveの録音を敢行する。

 ここから3枚、グールドマンの提供曲によるシングルを連発するのだけど、Heart Full of Soulからはエリックよりずっと柔軟で、ロック的なギタリスト、ジェフ・ベックを迎えることになる。それによってバンドはエリック時代に行っていたブルーズ/R&Bの模倣という領域から抜け出すことが出来たんじゃないかと思う。

 後に10ccを結成するグールドマンの曲はこの時代から既に所謂「ひねくれポップ」の味わいを出していて、結構狂っている。それを受け止めるにはエリックでは不十分だった。そして、そのエッセンスをバンド側が吸収していく過程はEvil Hearted YouのB面、Still I'm Sadを経て、必殺の代表曲Shapes of Things、そしてOver Under Sideways DownとアルバムRoger the Engineerへと、刻々進化するオリジナル曲に表れている。

 ここまでのオリジナル曲全てにマッカーティとサミュエル=スミスの名がクレジットされてることも重要(アルバムの収録曲は全員の共作名義)。なんかこの時代、ベックが曲書いてるとか勘違いされてそうな気がするけど、実はこのあと、ペイジ加入に至ってもバンドの中心人物はレルフとマッカーティなんだよね。Shapes〜がレルフ/マッカーティ/サミュエル=スミスって名義なのは少し驚いたな。

 さて、ヤードバーズを追い出された(という認識は誰にも無いだろうが)エリックはと言えば、ジョン・メイオールのバンドに加入、取り立て観るべきところのない凡庸なブルーズの模倣作品をリリース。しかし、自分が抜けたバンドがRoger the Engineerをリリースしたのを見て「これではマズいのではないか」とようやく気付いて、ポップでアースティックなロックバンド、クリームの結成に至るのだ。こう解釈しないとクリームのデビューシングルが「包装紙」ってコトの説明がつかないのよね。

2014年10月16日木曜日

Led Zeppelin / Immigrant Song


「移民」と「Immigrant」の音の一致は素晴らしいながら置くとしても。

 Zepの代表的ハードロックヒットとして聴かれているこの曲だけど、14年リマスターを聴いてなんとなく正体が分かった。ある意味でこの曲、Kashmirの先祖的な位置づけでもいいんじゃないだろうか。

 パーシーが北欧神話をモチーフに詞を書いたのはてきとうにやったワケじゃなくて、やっぱり曲の持ってるエキゾティックな、ケルティック、なのかな?そういう響きを読み取ったが故、なのは言うまでもない筈。イントロの咆哮(?)だってそういうメロディラインだし、レコードのヴァージョンには出てこないペイジのギターソロもどこかエキゾティックなメロディ。基本テーマとしてそういう方向性がはっきりあったことは間違いない。

 そう思って聴くと、実はリフ、そしてそれにシンクロするボンゾのあの、それこそハードだ、ラウドだと解釈されがちなキックのフレーズも実はヘヴィでこそあれ、ハードというよりむしろある種のシーケンスフレーズ的な、ミニマルなフレーズに聴こえてくる。実際、ライヴではともかく、スタジオヴァージョンの特に歌バックを聴いているとベースともども凄く淡々とプレイしているのが解る。これがエキゾティックなメロディのバックを担うことによってどこか呪術的な雰囲気も漂わせる、というワケ。

 14年リマスター収録の別ミックスを聴くともう少し解りやすくなって、特にエンディング付近からのサイケデリックな味付けがこういう要素を強調していることが解る。完成版ミックスではこの辺は少し抑えられ、よりキャッチ−なポップミュージック(シングルヒット向け!)としての完成度を目指す方向性に改められたようだけど、別ミックスだと、突如大量に重ねられるパーシーのヴォーカルや、そのあとの唸り声、ギターのサウンドなどがかなりサイケデリック、しかも英国サイケと言うよりDr.ジョンのヴードゥー路線みたいな音にさえ聴こえることが解る。

 実はこの解釈だと次のFriendsへの流れも自然だし、誤解されがちな「異色作の中で唯一の従来路線」なんてのは大嘘だ、ってコトもよく解るはず。結構実験的なんだ、この曲も。

2014年10月15日水曜日

フランシス・ハ

 俺らしくないセレクトなのかな?なんか「女の子が観そうな映画」(偏見)を観た。意外に男の、しかもひとりの客が多かったけど。土曜の昼間で、カップル居なかったなー。

 っていう偏見を持って観に行ったこの映画、奇妙なタイトルと、予告編のスピード感(白黒のせいでA Hard Day's Nightっぽいとか騙されかけた)、それから主題歌のModern Loveのせいで興味を持ったのだけど。

 ストーリーにも映像にもスピード感があって、感覚としては凄く観やすい(俺のような集中力のない映画初心者には特に!)作品だったんだけど、そのスピード感が徒になった部分もある。基本的に場面や時間の転換がやたらにスピーディーで、時間の進み方がところどころで解らなくなる面もあって、そのうえ主人公フランシスは基本的に行動がいきあたりばったり、しかもこの女、嘘つきというか見栄っ張りなので、観ている側にも彼女の置かれている状況が把握しきれなくなってしまう。

 その結果、終盤での親友ソフィとの再会、和解を経て、最終的には(おそらく)チラシの煽りにもある「ハンパなわたし」を受け入れて身の丈にあった生き方を再発見、そして成功、という流れが、観てる最中にはとても唐突なものに感じてしまうのね。あとから脳内で流れを補完する伏線というか流れはちゃんとあって、「ああ、そういう流れでの自己肯定なのか」って解るんだけど。俺の頭が悪いのか?

 「ハンパなわたし」であるところの主人公は前述の通りガチでハンパ者で、享楽的で行動が行き当たりばったりで、見栄っ張りで社交的だけど空気が読めなくて、自己主張が強くて寂しがり屋でだらしなくて友達に依存してて間が悪くて、ガキなんだよね要するに……ってかね、俺を観てるようで、もう観ててしんどくなってくるんですわ。ホント、こいつの言動観てるとイライラしてくる。ただ、よく言われる「不器用」ってのは違うと思うし、「こじらせ女子」って表現にもなんか違和感あるな。むしろ(いい歳して)天真爛漫すぎてこじらせ切ってない、と言うか……「間が悪い」って書いたけどそれは彼女の性質と言うより「そういう時期」っていうところもあるしね。

 いや、実際のところ基本的にはいい子だし、容姿もなかなか可愛くて整ってるんだけどね。体型が微妙にもっさりしてるのも絶妙だよなぁ。

 まあ、そういう意味で、主人公もそうだし、脇も含めてキャラクター描写はなかなか優秀だと思う。みんな適度にキャラが立っていて、こいつはこういう奴、ってのがすぐに解る。前述のソフィが魅力的だったな。フランシスと同レベルで楽しく暮らせる程度には駄目な奴なんだけど、ちょっとだけ真面目でしっかりしていて知性もある。だからフランシスは彼女に依存できてしまうんだけど、その差異の描写は絶妙だったと思う。あと、それなりに知的な眼鏡美人(知的すぎないし、美人過ぎない)なんだけど、知性を眼鏡じゃない部分で感じさせてるのは素敵だったな。まあ、ある人に言わせると「出版業界によくいるタイプの知的なブス」らしいけど(笑)あ、因みに、スティングの娘(!)だそうです。

 すでに触れたとおり、俺はこの映画を感じ取りきれなかったんだけど、「ターニングポイントは母校でのバイト」ではないか、と言う人がいた。成る程、と思いつつもコレはひとの視線だから俺は細かく書かないし記憶があやふやで書けない(笑)けど、やっぱり俺がフランシスに自分を重ねてしまう程度に今現在駄目であること、つまりフランシスが劇中で通った道を通過しきっていないことがやっぱりこの辺を感じきれなかった理由かなあ、って思う。
 まあとりあえず、学校の(寮の?)廊下で子供が泣いてるシーンは台詞も状況説明も全然無いけど、フランシスが他者との関わりを意識したことを表現している重要なシーンだと思う。

 音楽にも触れよう。Modern Loveをバックにフランシスが走り踊るシーンは流石にニコニコしてしまったし、T. RexのChrome Starがちょこっと流れたのには意外にゾクッときた。チョコレート・ドーナツでの扱いが悪かったからさあ(笑)溜飲が下がった。パリのシーンでのHot ChocolateのEvery1's a Winnerも印象的だったな。ってか、この曲知らなくて、でも凄い気に入って後で調べたんだけど。思わずベスト盤を買ってみたらこの曲が一番好きだと言うことが解った(笑)

 でもなにより、彼女が男友達の家に転がり込むシーンでちょっと流れたポール・マッカートニー79年録音の未発表曲、Blue Sway。McCartney IIのデラックス盤リリース時に登場したリミックス(86年)なんだけど、ポールはたまにサントラ用に突然未発表曲を提供したりするから油断できないんだよね。コレはデラックス盤が先に出てるからいいんだけどさ。いや、マニアックだし大好きだし、すげーニヤニヤしちゃった。

2014年10月14日火曜日

バルフィ! 人生に唄えば

 可愛い映画だったが、上映時間が可愛くない。長い。2時間半、ってインド映画としては短めの部類に入るらしいと聞いた時は開いた口がふさがらなかったが、まあ、実際問題としてはテンポも良かったし、楽しかったし退屈はしなかった。尻は痛くなった。

 聾唖の青年バルフィ(本当はマルフィなんだけど、発声が不自由な彼が発音するとバルフィに聞こえる)と二人の女性を巡るラブコメ。一人は婚約者がいるにも関わらずお互いになかば一目ぼれしてしまった美女シュルティ、もう一人はお金持ちの一人娘で自閉症のジルミル。まあ3人揃って容姿がもう素晴らしいんだがそれはまあインド人補正プラスファンタジー映画、ということで。

 ファンタジーなんだよね。まず、この映画にリアリズムを求めたらそれは完全に間違いだし、楽しめない。ネットのレビューに「バルフィのやってることは犯罪で、容認できるものではないし感情移入できない」とか逆に「障害者は無条件でいい人のような描写がされている」みたいな的外れなレビューがあったけども、まああなたは映画を楽しむのには向いてないからご自宅でニュース番組だけ見ていなさい。

 映画はグランド・ブダペスト・ホテルのように三つの時間軸で構成されている。現代と、1972年と、1978年。違うのは過去の二つの時代はともに事件が動いていること。要するにシュルティとの恋を描いたのが72年編、ジルミルとの愛を描いたのが78年編、そして、バルフィとジルミル以外の登場人物たちが何故かインタビュー形式で当時のコトを語る現代のシーンが挿入される、という構成。この現代のシーンの意義がよくわからないんだけど。まあ、幸せなエンディングを描くためのものだったのかな?それにしても現代シーンでの登場人物たち、とくに主役級3人の老けメイクの雑さには笑う。ドリフのコントかよ!っていうレベルでな(笑)まあ、ファンタジー。

 っていうね、突っ込みどころは沢山あるんですよ。そもそもが二つのラヴストーリーを詰め込む必要があったのか、ってところからしてね。まあ確かに後半部分、ジルミルがシュルティに嫉妬するシーンはその結果ジルミルの失踪につながるから重要なのは事実だし、耳の聞こえないバルフィにジルミルの呼び声を伝えるべきか逡巡するシュルティのシーンも切ないし、テーマにも直結するいいシーンだから無意味ではないのだけどね。

 でもまあ、突っ込みどころはスルーしつつ笑って楽しむのがこの映画の正しい鑑賞法だよね。

 「この映画はフィクションでありファンタジーです」ということの表現として音楽が使われているのは面白い。突然歌われてストーリーを説明する劇中歌もさることながら、BGMを演奏する楽団が画面に映り込むこと。しかも彼ら、時間を超えて同じ場所で演奏し続けてたりする。画面だけ転換して楽団は固定されてるわけ。
 しかも音楽がいい。劇中歌もポップで、しかもインド楽器がいいバランスで使われてて聴き応えがあるし、BGMはインド風味を持ちながらどこの国の人でもノスタルジックに感じるような、ミュージックホール風とかにも近いのかな。そういう空気があって心地よい。

 この映画は徹頭徹尾ファンタジーだ。ラストシーンは危篤のバルフィにジルミルが寄り添い、そのまま一緒に息を引き取る。直前まで元気だったジルミルがここで死ぬ理由は全く無いし、そこにリアリティなんか一切無いんだけど、これはおとぎ話。ジルミルが死んだ理由は「そう望んだから」「バルフィと一緒に生きて、一緒に人生を終わろうと思ったから」それで充分だ。

 あとパシリム主義者的には、バルフィとジルミルがキスしないでおでこコツンやるのはポイント高いよな!ちなみにシュルティとはキスシーンがあって、それはそれで興味深い。

2014年10月13日月曜日

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち

 面白そうだと思って観に行ったら全然わからなかった映画。

 グレート・ビューティで描かれるのとは真逆の、華やかなローマではない部分を切り取った作品。幾つかの場面が定点観測的に繰り返し描かれる。救急隊員の日常、TSの売春婦、偏執狂的な植物学者、うなぎ漁師の夫婦、邸宅をレンタルする没落貴族、朝から晩まで会話を続ける父娘……

 基本的にはドキュメンタリーで、環状線周辺に暮らす人々の生活を描いているのだけど、ただ、(映画、ひいてはドキュメンタリー慣れしていない)俺の感じ方が下手なのか、視点がなかばランダムに切り替わり、明確な焦点が無い映像には戸惑ってしまった。自分の視点の置き場が無い。感情移入する先が無いのは仕方ないし、物事は俯瞰で観たい性格なので良いのだけど、カメラは俺がもう少し観たいと思うと次に切り替わり、もういいやと思う部分を延々映し続ける。この匙加減が俺と監督で食い違ってたのが一つの原因。

 もう一つは、ドキュメンタリーでありながら妙に芝居がかったシーンが散見されるところ。特に没落貴族のシーンは邸の内部で映画(ドラマ?)撮影が行われたり、その最中に主人が別の部屋で風呂に入っていたり、家族でパーティ(教会の儀式?)に行くシーンも微妙に非現実的だったり、まあこのシーンだけ「華やかなローマ」の断片というか、残滓が混ざっているせいもあるんだろうけど、唐突な印象があって自分の中のスピード感覚が狂わされてしまう。

 だからだんだん何を観てるんだかわからなくなって、結局印象的なシーンは沢山あるんだけど微妙な気分ばかり蓄積されていく映画、という印象になってしまった。

 だけど、この映画の後に二本の映画を観て少しだけ解った気がする。

 グレート・ビューティはフィクションだけど、これとセットで観るといいと勧められていた。確かに、対比出来るシーンが沢山あったり、断片的な映像が、あくまで他人事として通り過ぎていく感覚は意外に近い。視点を主人公に置くか、監督に置くか、という話なワケだ。

 それから「無作為な定点観測」という意味でリヴァイアサンが意外に近いんじゃないか、とも思った。無作為では無いんだけど、何箇所かに取り付けられたカメラがそこで起こっていることを淡々と映し出していく。人の生活と魚の死体は等価なんじゃないか、という気さえしてくる。

 映画的ドラマに結実しないフィクションと、ドキュメンタリー的主張を持たないドキュメンタリーを観て、ようやくある程度この映画の鑑賞法が見えてきた。もう一回観るかなぁ。

2014年10月8日水曜日

リヴァイアサン

 89年に同名の怪物映画があるらしいけど、それじゃない。怪物映画かホラー映画と思いながら予告編を観ていたがどうも違うっぽい。ドキュメンタリー?なんか様子が違う。予告を観たらなんだかわからなくてとても気になっていたので、逡巡した末に、観に行ってみることにした。

 本編を観たらなんだかわからなくて、そしてとても惹き込まれた。

 どこぞのネタばれレビューにもあった通り、結局どんな映画かを知るためには予告編を観ればいい。予告編にはこの映画の内容を示す全ての情報がある。だけど、予告編でこの映画を感じ取るには圧倒的に不足している。何が不足なんだろう。映像か、音か、時間か。

 なんだかわからない映画を文章で書き示すのはとても空しい。この作品が求めているのはただ感じることだけ。映像にも音にも意味なんかなくて、全ての情報がフラット。人間も生きている魚も死んでいる魚もホタテもヒトデもカモメも船体も重機も網も海も空も水も朝も夜も音も無音も全部が等価。あらゆるところに取り付けられたGoProなるカメラがあるがままを映し出していく。そりゃあ編集には人間の意図が入り込むんだけど、それだって意味の排除に細心の注意を払っているようにさえ見える。

 そんな映画だから、正直言って最初は退屈した。何も起こらないんだもん。でもところどころに目を惹く映像が、耳を惹く音が出てくる。何も起こらないところに突然、自分の感覚に入ってくる一瞬は鮮烈だ。そういうことが繰り返されると、少しずつその感覚が増えてくる。それは後半に行くに従って目を惹くシーンを増やしてるんじゃなくて、自分の感覚がこの映画に馴染んできてるんだと思う。そうしているうちに、映画の世界に完全に惹き込まれている自分に気づく。

 等価とは言ったけど、全編が重圧の塊のような映像だから、カモメが出てくると圧倒的に癒された気持ちになるのもまた、ほんとだけど。