2014年11月20日木曜日

T.Rex

 何度も強調しているけど、俺はバンドとしてのT.レックスが好きなのであって、マーク・ボランのファンというわけではない。勿論マークは大好きだけど、世間一般のイメージ、つまりT.レックス=マーク・ボランとは捉えていない。あくまで俺はバンドが好きなのだ。時代によって2〜5人編成になるけど、マーク以外のメンバーは決してサポートではなくて、彼らはバンドだったと思っている。勿論、俺が一番好きなのは黄金期の4人。マーク、ミッキー・フィン、スティーヴ・カーリー、ビル・リジェンドの時代だ。


 ミッキーは、スティーヴ・ぺリグリン・トゥックの後任としてティラノサウルス・レックスに加入。多彩なマルチプレイヤーだったトゥックと違って、基本的には絵描きであり、パーカッションプレイヤーでさえもなかった。トゥックの後任だから初期の写真などではパーカッション以外にもドラムやベースを演奏しているものもあるけど、勿論パーカッション以上に素人。論外、というレベルの演奏をしているところはBBCセッションの音源などで少し聴くことが出来る。

 彼はいったいバンドに於いて何をしていたのか。メイン楽器であるコンガは賑やかしレベルでぼこぼこ打ち鳴らすだけ。ヒール&トゥとかオープン、クローズとか、基本的奏法を学んだりもしてないんじゃないかな。スラップっぽいての動きを時折見かけるけど、サウンドはオープンとあまり変わらない。いや、あんまり音量上げてもらえないからそんなちゃんと聴きとれないのも事実だけど。

 そう、彼の音はフィーチャーされない。ステージでは基本的に全曲で芸の無いプレイを聴かせているが、会場によってまちまちであるものの総じて音量は低めのミックスだ。時々コーラスもしているけどちゃんとハモっていう気配も無いし、こちらも(スティーヴ・カーリー共々)音は小さめだ。そして、スタジオ盤ではもっと悲惨で、全くミッキーの音が聞こえない楽曲がしばしば、いや、むしろ大半だと言ってもいい。特に後期に於いてレコーディングはされたがミックスで消されたり、ほかのプレイヤーの(まともな)演奏に差し替えられたりもしたという。

 それでもミッキーはT.レックスのナンバー2であり、マークのパートナーだった。彼の存在感はマーク以上に「グラムロック」を体現していたし、何もしない、ある意味お荷物でさえもあったがマークの精神的支えの一人でもあった(その辺の具体例を示す資料は少ないが、「そうだった」という証言はしばしば聞く)。Zink Alloy〜Zip Gunの時期、マークの迷走とミッキーの不調→脱退が重なるのは偶然ではないのかもしれない。そして、同時期に表れたグロリア・ジョーンズがミッキーに代わりマークを支えていくことになる。


 T.レックスの1stはマークとミッキー(+トニー・ヴィスコンティ)で作られたが、バンド化を図るにあたってまずベーシストが迎えられた。スティーヴ・カーリーを加えた3人での演奏はやはり初期のBBCセッションや、ビート・クラブの映像などでも聴くことが出来る。

 カーリーは良くも悪くも普通の人だった。演奏はそこそこ手数が多くて微妙にテクニカルにも聞こえるけどまあ中の上、まで行くかな?って感じ。だけどメロディアスで印象的なラインを弾くので、結構曲のアクセントとして機能している。マークが細かいフレーズまでサジェスチョンしたとは思えないから、この辺はカーリーのセンスだろう。ビート・クラブでのJewel終盤のアドリブソロは特に印象的。ってか、アレで俺はカーリーのファンになった。

 スティーヴ・カーリーの中庸さはステージで活躍する。他のメンバーの不安定さを彼の堅実さが支える、ところまで行かない程度に下手なのがT.レックスのステージにおける醍醐味だ。マークはわが道を行き暴走気味、適応能力の無いリジェンドはあたふたとおいてきぼり寸前になりながら追いかける。勿論ミッキーは一切あてにもならないし役にも立たない。そんなバラバラのバンドを中庸で安定したベースプレイで繋ぎとめようとする……のだが、バンドの崩壊速度に彼の能力ではとてもじゃないけど追いつかず繋ぎとめきれない、そこがいい。そして、その崩壊寸前状態にこそT.レックスのグルーヴがある。

 そんな頼りないドラマーのビル・リジェンドはカーリーより少し遅れて雇われた。彼のドタバタして少し不安定なリズムと、つんのめり気味に入ってもたり気味に出ていくタム回しは特徴的で、マークが前、カーリーが真ん中、リジェンドが後ろにいるような状態で生まれるグルーヴが初期のT.レックスを印象付けていると言っても過言ではない。

 リジェンドの頼りないイメージは主にテレビ出演時、口パク演奏の場で発揮される。そもそもT.レックスのレコーディングはあまり曲を覚える暇も無いままマーク主導でガンガン進められ、ドラムなんかは後からこうしたかった、とか色々あったような証言もあるのだけど、そんな事情もあり、彼は恐らくレコーディングで自分が叩いたフレーズをちゃんと記憶してないんだろうね。その結果、自分のプレイに合わせて当て振りをする状況になると彼は困ってしまう。それでもキース・ムーンやジンジャー・ベイカーみたいに、合わせる気なんか全然無しで堂々と出鱈目動けばまだいいものの、半端に真面目なもんだから、不安そうな表情で、中途半端な腕の振りで、自身無さげにバックの音に着いていくしかない。その姿はひたすら情けなく、頼りない。

 リジェンドは(オリジナル)T.レックス唯一の生き残りだ。マークは言うまでも無く77年に事故死、初代パーカッションのトゥックも80年に「さくらんぼの種をのどに詰まらせて」死去、カーリーも81年にポルトガルで客死、ミッキーも肝臓病で03年に亡くなっており、14年現在「Legend=伝説」の名を持つ彼が唯一、当時の伝説を語れる立場にいる。

2014年11月19日水曜日

Robert Plant / Lullaby and... The Ceaseless Roar

 Led Zeppelinが再結成されない影の主犯はジミー・ペイジだった、という衝撃の事実。

 プラントのソロを聴いていると、その傾向がPage & Plant前後で分けられるのは意外に簡単に気付く。Page Plant名義での1stではKashmirで確立した世界を更に広げたようなサウンドが展開されていた。思えばZep時代にも、ペイジとプラントはボンベイへの旅行中にFour SticksやFriendsを現地ミュージシャンと再録していて、それは言わば「第一期Page & Plant」と呼べるのかも知れない。ともあれ、アルバムはアジアや中東、加えてケルトの香りも纏ったサウンドでほぼ統一されていた。

 しかし、Page & Plantがバンドとして活動を続けることになり、ツアーを行っていくうちに状況は変化を見せる。録音時のメンバーをフルでツアーには連れて行けないし、同作はZepのリアレンジが主体だったため、新曲はあまりない。そうすると、勢いツアーは「Zepの曲をエレクトリックサウンドで演奏する」という部分が強くなっていく。それは、「再結成ではない」という言い訳の説得力を凄い勢いで落としていった、

 かくして、Zep再結成に成り下がったPage & Plantだったが、ここで行った音楽的経験は大きな刺激となる。「これを活かして、新しい音楽を」と思ったに違いない。Unleddedに参加していたメンバーを軸にして新バンド、Strange Sensationを結成する。このバンドはエレクトロニクスと、トラディショナルなアコースティック楽器を共存させたグループとなり、メンバーが様々な楽器を操りながらまさにPage & Plantで中途半端にフェイドアウトした世界観を発展させていた。結局プラントはこのバンド名義(メンバーチェンジあり)でアルバムを2枚作る。

その後、Strange Sensationは一旦活動を停止し、パーシーはアリソン・クラウスとの活動や、何故か突然Band of Joy名義(再結成ではなく、完全な新バンド。Strange Sensationのメンバーは不参加)での活動を続けていたが、2012年以降はSensational Space Shifters名義で、ドラマーが代わったが事実上のStrange Sensation再結成(活動再開、と呼びたい)で活動を始めた。

 で、最新作が今年出たので買ったのだけど、大傑作。説得力がもう全然違う。そりゃあ、Zepの再結成もなかなか凄かったのだけど、あれは説得力というか余裕の余興で、全力で「俺の音楽」という感じはなかった。

 今回のキーマンの一人として、アフリカのガンビアという国から来たJuldeh Camaraがいる。現地の民族楽器である1弦のフィドル(Rittiという楽器らしい)のプレイヤーである彼はSSSのメンバー、Justin AdamsとJuJuというバンドもやっていて、その人脈での参加のようで、Adamsもまた、複数の民族楽器をプレイする。

 こういった民族音楽の要素を完全にバンド内に取り込んで、以前より更に強化したのと同時に、ベースのBilly Fullerがプログラミングも担当していて、エレクトロニックな響きもアルバムには多々登場する。だから、全体にはアコースティックなんだけどどこか冷徹な空気も流れる、柔らかいバラードでも何処か硬質な雰囲気のある、不思議な感触のサウンドになっている。なんだか、神話の時代と21世紀が同時に来たみたいだ。勿論、この傾向はStrange Sensation時代から持っていた物なんだけど、アルバムが出る度に深化している印象がある。「俺の音楽」が強く、深くなってるのだ。

 余談だけど、こういうサウンドの傾向はベックとか、ザ・バード&ザ・ビー(イナラ・ジョージのグループ)とか、ダーニ・ハリスンの音楽とかにも感じていた。でも、年の功か、プラントのが一番しっくり来るな。

 プラントはもうハイトーンでシャウトしたりしないし、むしろ抑えたトーンで、囁くようなシーンも多い。出ないから演らないんじゃないことはZep再結成で証明した。今の音楽にはそれは必要ない。ハードロックで叫ぶ所なんかとっくに卒業したのだ。いまだにソレを求める成長しないファンやペイジに関わってるヒマなんか無いのは凄く良く解る。

2014年11月17日月曜日

365日のシンプルライフ

 俺はコレクター気質だし、物欲の虜であって、部屋にモノが多いことではこの映画の主人公にも引けを取らないだろう。だからなんかの参考に……とか思ったわけでもなく、テーマ的に面白そうだったし、予告編で、冬の深夜、フィンランドの街中を全裸で走るシーン観たら笑っちゃって、あとはもう観るしかないじゃん?

 コレはドキュメンタリー、ではないのかな?登場人物はすべて実名で、監督であり主人公のペトリと、その家族、友人、恋人が本人の役で出演している。映像も、この「実験」を本当に記録したものに見えるシーンもあるし、映画のために演技して取ったものもあるように見える。恋人といるときのにやけ顔はリアルだし、彼女のことを聞かれてもいないのに友人に語って薄いリアクションをされるシーンなんかも、脚本としては書けるシーンじゃないように見える。逆に、演技ではないけど倉庫の内側から撮ったシーンなんかは映画用の追加撮影かな、と思ったり。何にしても、映画の多くの部分に彼自身が記録として撮影したものが使用されていることは間違いなく、俺はとりあえず、セミドキュメンタリーだと思って観た。

 主人公(脚本、監督でもある)が自らに課した「実験」には4つのルールがある。公式サイトでも見れば書いてあるけど、いちおう記しておこうか。

(1)持ち物をすべて倉庫に預ける
 本当に「すべて」だから全裸から始めるのが馬鹿馬鹿しくて良い。倉庫まで拾った新聞紙を使うのは、アリなのね。

(2)1日1個だけ持ち帰れる
 コレは補足が必要か。「1日に持ち帰れるのが1個」ではなくて、「365日で365個持ち帰れる」と言う方が正確だ。つまり、3日倉庫に行かなければ3日後に3個持ち帰れるのだ。だから彼は「机があったら椅子が必要になる」みたいな理由で複数のモノを持ち帰ったりも、する。だけど「前借り」は駄目なようで、例えば今日2個持ち帰って、明日行かないってのは不可、と言うコトのようだ。

(3)1年続ける
(4)1年間何も買わない
 持ち物になるようなモノは買わない。食料品や、新聞はアリのようだ。
  
 そういう生活してると、なんか「何も持っていない」って状態に意義を感じ始めるみたいで、50個持ち帰った時点で「もう何も要らない」って思ってしまったのが凄かった。でもその気持ちは少し解る。一週間一桁ツイートしかしてなくて、たまたまある日ちょっとしたリプしたのを切っ掛けに二桁超えちゃったときの悔しさ、とか……ちょっと違いますか。
 結局必需品はそのくらい、もう少しちゃんと生活するためのモノを足しても100番目くらいまでに揃っちゃうのね。だから55番目くらいから釣り道具とか、趣味のモノが顔を出し始める。面白いのは、パソコンは23番目に持ち帰ってるんだけど、携帯は82番目(パンフ裏面のリストより)。これは友人や家族等とのコミニュケイションに支障をきたしはじめた、って描写もあるんだけど、それでも3ヶ月近くどうにかなってるのは凄い。

 気になるのは、96,97番目と135〜163番目にレコードを持ち帰ってるんだけど、リスト見た限りタンテやオーディオを持ち帰ってる気配がない。インテリアとして持ってきたのかな?

 途中まである程度フィクション、と言うか、役者が出てると思っていたのでおばあちゃんが怪我をしてから老人ホームに入るって話になるまでの流れが切なかった。おばあちゃん、凄くいい人だし聡明だし可愛い。ペトリに色々アドバイスするんだけど、すべてが的確で、大切な話なんだよね。あとは冷蔵庫。ちゃんと伏線になって繋がってくるのが凄くて、まるでフィクションみたい。

 逆に「ああ、記録映像使ってるんだな」って思ったのは、彼女と正式につきあい出す前の映像には彼女の顔が一切映らないこと。気を使って撮影してるんだね。ラスト前に、二人で倉庫にやってくるシーンで遂に顔が出る。可愛い子捕まえたねえ。

 フィンランドでは、映画公開後彼の生活を真似してみたり、ある程度の期間モノを買わないことに挑戦する人が続出したようだ。俺もエンドロールに流れる365個のモノ(フィンランド語で書かれてるからなんだか解らないんだけど)のリストを見ながら、自分の生活を少し変革させるのも必要だろうなあ、と思っていた。確かにモノが多すぎる。少し整理しなくちゃな。

 この日は映画の割引がある日だったからもう一本見ることにしていて、次まで時間があったから横浜駅に戻ってフラフラした。そして、早速我慢できずに自転車のパーツやらCDやらレコードやら買い込んでる自分の姿が、そこにあった。

2014年11月13日木曜日

Paul McCartney & Wings / Band on the Run

 RamとBand on the Runは奇妙な関係にあって、前者はポール(&リンダ)名義での事実上のプレ・ウイングス作品。後者はウイングスの名を借りた事実上のポールのソロ作。ある意味で裏表の関係。だけど後者はバンドっぽくて、前者はパーソナルな匂いがする。

 俺は基本的に「バンドマジック」というのは「バンド名」にも宿ると思っていて、それはピートとロジャー二人だけが生き残ったフーを見たときに思いを強くしたんだけど、要するに、バンドというのはメンバーが「バンドであろう」と思ったときに成立すると思っている。だからRamはデニー・サイウェルとヒュー・マックラケンがどれだけ奮闘しようとあくまでポールとリンダの作品だし、Band on the Runはポールのワンマンレコーディングにデニーとリンダが「参加した」状態で作られてもバンドの音楽として成立しているのだ。

 そういえばBand on the Runがまさに「バンドが逃げた」状態で作られた、っていう言及がされてるのを見た記憶がないのだけど。コレは余談。

 レココレの特集では「バンドがいないからあえてBandというキーワードに思いを込めた」というような(うろ覚え……)ことが書いてあったんだけど、コレはさっき書いた「バンド名マジック」と同じ意味だと思う。作られ方も多分Ramに近くて、ポールのドラム(またはピアノ)とデニーのギター(またはベース)でラフなベーシックを録って、そこにオーバーダブ(半分以上がおそらくポール自身によるもの)を加えて行った筈。ただ、あくまでセッションマンだったマックラケンやドラマーのサイウェルと違って、作曲やプロデュースの能力のあるデニーと、ビートルズ時代から信頼を置いているエンジニアのジェフ・エメリックの存在がこのアルバムから「不安定要素」を取り除いているんじゃないかと思う。あとは、My LoveやLive and Let Dieの成功によるポール自身の自信の復活か。

 さっきは「参加した」という書き方をしたが、実はデニーの貢献は結構大きくて、というか大きくならざるを得なくて、実際、こういうとき以外に気が小さくなる面もあるポールは結構デニーに頼っただろうし、結果として、No WordsとPicasso's Last Words(あ、両方とも「Words」だ)ではデニーとポールがリードヴォーカルを分け合っている。

 とはいえ、音空間に漂う空気はMcCartneyやMcCartney IIに近いもの。Ramと違ってベーシックからかなり練られているんだけど、サウンドそのものはラフじゃないんだけど、どことなくデモっぽいんだよね。それは後に多くの曲(近年のライヴまで含めればMamunia以外の全曲)がライヴでバンド編成で再アレンジされ、プレイされているせいもあるのかもしれない。つまり、このアルバムの曲のバンドとしての完成形が後に提示されてるのね。

 特にLet Me Roll ItやBand on the Run、Jetの完成形は明らかにWings Over Americaでのもの。まあ、その分異形性が取り払われて普通のロックンロールになってしまった、という面もあって一概に「完成=最高形」では無いとは思うんだけど。

 Let Me Roll Itに関しては特に昔からこの論を言い続けてたんだけど、ジミー、ジョー参加後のヴァージョン以降のアレンジはあくまで「完成度の高いブルーズロック」で、レノンのCold Turkeyとの比較をするような音楽ではなくなっているとも思う。Cold Turkeyは逆にトロントでの普通のブルーズロックヴァージョンからスタジオ録音で異形の「レノンブルーズ」(俺の造語)に進化したんだけど。Let Me〜の場合はそれでも、One Hand Clappingで聴けるジェフ・ブリトンが叩くヴァージョンからジョーのドラムに代わる課程でリズムの側から異形性を取り戻してるのは面白い。

 そういえばBand on the Runも元々はポールの持病である「憧れのHappiness is a Warm Gun症候群」から産まれた曲の一つ(にして最高峰)だから、このアルバムは結構「レノンコンプレックス」から産まれた作品でもあるのかもしれない。この病気についてはまた別途語るとしたい。

2014年11月12日水曜日

電気グルーヴ / 塗糞祭 2014.11.8

電気の単独公演は初めて観る。初ライヴも去年のソニックマニアだったんだけど、実は(って言うコトもないが)カラテカくらいの時期からのファン、今や「古参」と言われる部類だと思う。今回は25周年と言うコトで懐メロツアーだというし、歴代メンバーやコラボレイターが登場するというので、楽しみにして挑んだ。いいんだ、懐メロだって。お祭りなんだから。

 定刻を10分程過ぎたくらいでスタート。オープニングは当然の如く電気グルーヴ25周年の歌だが、そのあとはカラテカ、UFOからの選曲がメインとなる。後のMCで卓球も言っていたが、「二度とやらない曲」が目白押しだ。いや、Twist of the Worldやケトルマンなんかこんな機会だって聴けないと思ってたよ。

 今回のツアーの特徴の一つは「ダラダラと無駄に長く意味のないMC」。瀧がなんか言うと卓球がいちいち要らんとこ拾って無意味な駄洒落言うからもう進まないこと。CMJKん時もまりんの時も「そろそろゲスト呼ぼうか」って言ってから何度脱線繰り返したか。もうね、ホント、糞面白いんだけど、鬱陶しい(笑)早く曲やれよ!ステージで雑談してんじゃねえよ!マイク使えマイク!(笑)DVDのオーディオコメンタリーあるじゃん、アレ。アレと同じ。本当に酷い。


 最初のゲストCMJKを迎えては1stアルバムの曲のリアレンジを3曲。「あー、この頃は矢鱈に歌詞に電気グルーヴって入ってたなあ」とか懐かしむ。今時のEDMっぽいサウンドは馴染みがないのだけど、思った以上に相性がいい。そして、初期の曲って結構ファンキーなんだな、って思う。Bingo!はやっぱり楽しいね。

 続いてはDJ TASAKAを迎えて浪曲インベダーとドリルキング社歌。後者はスチャダラパーの出囃子を兼ねていて、大阪、名古屋でも演ってたけどTASAKAが入ったのは東京公演のみだったようだ。ああ、KAGAMIもいればなあ……とは言わない約束、ってのはわかっちゃいるが。

 スチャを迎えては勿論電スチャのアルバムから。聖☆おじさんの後に瀧とアニの収集つかない猿芝居(アニが千円盗んだとか盗まないとか……)からアニVS瀧&瀧VSアニの「ラップバトル」に。結局アニは泥棒、という扱いのまま終わってしまう。

 今回散々話題にもなってたけど、目玉の一つとして電スチャによるブギーバック、というのがあった。卓球が小沢のパートを歌ったんだけど、なんとミドルエイトは牛尾が!ちょっと小沢に声が似てて笑った。そういえば、俺は2年前の今頃もスチャのブギーバックを観ていたのだ。あのときは星野源だったが。

再びメンバー+牛尾だけに戻って、比較的最近の曲を中心数曲。ゲストコーナー以外ではステージの階段に投影されるプロジェクションマッピングが素晴らしい。階段というモチーフでいろんなことをやってるのが、時折感動のレベルにまで。

 そしてこのパートのラストはモテたくて。事前に「今日だけのゲストがいるけど嬉しいものとは限らないよ」とか言ってたから誰が出るのかは予測してたけど、案の定この曲の2コーラス目からポリバケツの仮装をした天久聖一が。あまりにも酷い音程の歌唱で爆笑を誘う。しかし本人は仮装の出来にご満悦。1コーラスだけ歌って、とてもWOWOWで放送できないMCを言い捨てて、帰る。

 さて、ゲストコーナーの最後は勿論まりんなんだけど、その前のMCがまた長いコト!グダグダ遂に極まる。いや、もっと前から極まってるんだけど、極みを更新し続けるっていうね……いやー、ヒドかったな。瀧に物真似ネタ振ってやらせといてただ爆笑する卓球……客席もガチで引き気味だったのが最高だったな(笑)

 まりんは瀧の曲メドレーからスタート。正直このメドレーは若干ダレ気味に思えた。ストーンズのアメリカ公演のキースコーナーってこんな感じなのかしら。でもやっぱり富士山はどうしようもなくブチあがる。普段聴くには飽き気味だったけど、やっぱライヴでは凄いな。ロックンロールだよね。

 そしてママケーキ。オリジナル以上にファンキーにアレンジされてて、単純に最高にかっこいいファンクになってた。ラストは当然まりんがリードヴォーカルを担当。瀧と卓球も輪唱状態で被り、そして3人で謎の振り付け……まあ、個人的にはこのライヴのハイライトだったな。死ぬほど踊った。ってか、オレンジアナログで欲しくなっちゃったなー。

 まりんのパートは聴きなれたアレンジ(09年のリミックスベースか?)のグリラで再びブチ上げて終了。コレでラストでも文句無しくらいだけど、この後もまだ続く。再びゲスト抜きで、モノノケダンスやジャンボタニシ、Fake It!なんかを含む、ラストスパートにしては渋めの、しかしみんな嬉しい選曲が続く。個人的にはスマイルレススマイルが嬉しかったなぁ。レアクティオーンやパラシュートも聴きたい……とか思ったけど。

 俺はね、カメライフが本編ラストだって解釈したな。そしてN.O.もとい無能の人と電気ビリビリが、あえて662bpmのヴァージョンで演奏されたのこそが、事実上のアンコールだったんじゃないかと。そして、今の音で当時のアレンジを聴くともの凄く新鮮。こんなファンキーで踊れる曲だったのか!って思った。662はリマスターしてK/oonから再発して欲しいな。

 しかし、WOWOW入ってるのに「死体マニア」ヴァージョンで歌うんだからなあ(笑)ラスト曲、エンディング、二人がガッチリ握手するという最高の見せ場を作りつつも放送できないっていう事態を平気で作り出す。そんな25周年の締め括り。まあ、電気だしな。

2014年11月5日水曜日

イーダ

 観なくてもいいかなー、と思っていても観なかったら結局後悔するかも、と思うとかなり無理矢理でも観ないと気が済まない。観ないで後悔するなら観てがっかりした方がいい。そう思って、かなり無理矢理観に行ったのがこの「イーダ」という映画。タイミングを逃してるうちに近場で最後の上映館が終わろうとしていたので、平日にわざわざ行ってしまった。「どうしても」という映画ではないのに。

  ジャズが印象的に使われている、という程度の薄い動機で引っ掛かったので、実際よく考えるとそんなに深い興味が無い。だから公開始まってもだらだら先延ばしにしてしまっていたのね。でも何故か観なきゃいけない気がして。

 時代設定が60年代初頭で、ナイトクラブのシーンではジャズとポップソング(英国の最新R&Bよりちょっと野暮ったい感じなのが絶妙)がバンドによって演奏される。そこでイーダが惹きつけられるのがコルトレーンのNaima。俺は「あんまり上手くないな」って思ったんだけど(笑)まあ場末のキャバレーバンドだからある意味それもリアリティだろう。そういえば「サックスの音色が80年代っぽい」っていう評があって少し笑ったんだけど、俺もドラムのパーツ(特にラグの部分とか)が50〜60年代製には見えないな、って思ってた。古い時代の映画、機材選択は難しいよね。リアルに見せるためには「新品のヴィンテージ機材」が必要なんだから。

 お馴染み閑話休題。

 正直、難しかった。フランシス・ハに続きモノクロ映画を感じ取りきれないパターンだ。表現が多分繊細すぎるんだよね。先日観た「悪童日記」も静かな映画だったけど、それ以上に静か。セリフは極端に少なく、表情や状況を読み取らなきゃいけない場面が多い。まあ、ガサツな俺には向いてないよね。だけどモノクロってのがそのために効いてるな、とは思った。音楽は叔母さんのかけるレコードとナイトクラブのシーンで意図的に派手に表現されている感じ。コントラストを作ってるんじゃないかな。


 セリフが少ないのはイーダ役が素人だから、と最初は思ったのだけど、それは違うよね。セリフの無い演技の方がむしろ難しいんじゃないかな。特に、何回か出てくる落ち着かない感じの演技が秀逸。なんていうかねー、なんか、あるじゃん。その場で目の前の出来事に対峙した方がいいなーと思いながら出来なくて、逡巡しつつその場を立ち去るんだけどどこにも居場所がなくて、って言う、アレですよ。凄い伝わるんだよね。あればっかりは凄い。無表情なのも素人ゆえのものではなくて、ちゃんと無表情の演技だし。そういえば余談だけど、さっき対比した悪童日記の主役(双子)もプロの俳優じゃない。同様に無表情の演技が印象的だった。どっちも大戦と東欧っていう共通点もある。

 それから「間」が多い。食事のシーン、車に荷物を載せるシーン、それにイーダの祈りのシーン。テンポ感のいい映画を観慣れていたから少したるく感じたけど、これも静寂の表現の一つなんだろうな。特に印象的だったのがイーダが物思いにふけるシーン。いかにも「考えてますよー」って演技じゃなくて、ひたすら無表情で意識が内面だけに行ってる感じ。すごく大事なことと考えてもしょうがないこととつまんないことを同時に考えてる感じ。


 画面構成も「間」の表現なのかな。人物が右(または左)下に配置されて空間が凄く強調される画が多かった。で、それを「イーダと神をフレームに収めている」って解釈があって一つの考えとして納得。確かに、彼女のアップのシーン、中央に収めたシーンなんかは「神と別行動している」って捉えられるところが多い。なるほど、でした。

 叔母のヴァンダは薄々知っていた過去に向き合いきれず、命を絶つ選択をした。イーダは知らなくて済んだ筈の過去と向き合い、今までの生活と正反対の俗世を知り、自分と正反対の他者を知り、解ろうとして、知らなくて済んだ筈の未来の選択肢を垣間見て、そこから意思を持って自分の信じる未来を選択した。具体的な選択肢は画面には示されない。修道院に戻ったという解釈と、また別の道を歩みだしたという解釈と、どちらにも説得力があるけど、既に純潔でもなく、かといって俗世に塗れてもいない彼女がどこかに所属したり帰依したりできる気がしないんだよね。少なくとも、ラストシーンで一人歩く姿からは聖職者として一本道の単純な未来はイメージできなかった。

2014年11月4日火曜日

トーべ・ヤンソン展、他

 日記っぽい話を書く。「っぽい」ので日記ではない。しかも今日の話でさえない。ある日の日記っぽい話だ。

休暇を取ってトーべ・ヤンソン展を観た。画家としてのヤンソンに焦点を当てた展示。勿論ムーミンの挿絵もあるけど、油絵が多く展示されてるのが目を惹いた。個性的な絵ではないし、正直挿絵画での線画のスタイルの方が好きだけど、初期にはその線画に進む萌芽のようなものが見え、ムーミンを経て一時挿絵画に油絵が引きずられたり、抽象に向かった後に一旦油絵から身を退くんだけど、その後に描いた自画像が秀逸。色々呑みこんだ感じで、総括感があった。

 画を観ていて「ああ、俺には切り取る能力が欠けてるんだな」って思った。広角や俯瞰でばぁーっと見るのが好きで、そういう目線でものを見ているみたい。で、絵を描いたり、写真を撮るときに一部を切り取って、フレームに収めるってことが苦手。見せたいところを切り出す、ってことが苦手なのね。それは実は文章も同じで、アレもコレも書きたくて長くてまとまりのない文章になる。

 ジャック&ベティで「イーダ」を観た。余白の多い画面構成を見てフレームの件、更に思った。そのあとネットで意見を拾ってたら「余白はフレームに神を収めるため。イーダが自分の意思で動きだすシーンは中央に彼女が収められる」って言うのがあって、まあ全てがそうじゃないんだろうけど、納得。で、今度は映画からそういうものを読み取る能力にも欠けてるよなぁ、って思ったり。まあ、映画慣れしてないから仕方ないっちゃそれまでだけどね。

 たけうま書房という古本屋で「日本のポータブルレコードプレイヤー展」というのをやっていて、観に行った。ジャック&ベティのすぐそばじゃないか。映画を観るまで暇だったりするときにふらふら歩いていたこともある通り。こういう面白そうな店を見つける能力も衰退してしまった。偶然で行きあたるのも下手糞になったなぁ。

 サブカルチャー系に強そうな品ぞろえ。そんな店内に可愛いポータブルプレイヤーが大量に(108台!)並ぶ。展示もお洒落で、特に正方形の棚に並べたのはもうこの棚ごと欲しい、って感じだったな。楽しい店。また行きたい。

 伊勢佐木町の安い中華料理店で昼飯を食う。美味しいし安いしボリュームもあるのに空いてる。平日の、昼休み少し外した時間だからかな?しかし、量も食えなくなったなぁ。

 書店やレコード店を冷やかして帰る。充実しつつも、自分という個体の衰退を強く感じた一日。

2014年11月3日月曜日

FRANK -フランク-

 アンダーグラウンドなロックバンド、リーダーは常に巨大なマスクをかぶっている。そんな要素だけでも期待を膨らませるには充分な予告編を観た単純な初心者映画ファンはすぐに惹き付けられ、公開を心待ちにして、封切り初日に観に行ってしまった。これもまた、映画ファンとして初の体験である。

 音楽レビューっぽくバンド(ソロンフォルブス)のメンバーから紹介する。主人公はアマチュアミュージシャンで、偶然からバンドに参加することになるキーボーディストのジョン。日常を素材に自作曲をコンピューターで制作する序盤のシーンだけで彼の平凡な才能が描写される。この部分や後半でフランクに披露するオリジナル曲のパッとしなさが絶妙で、平凡な才能を持った作曲経験者はこれらのシーンだけで心臓から太腿くらいまでの皮膚と筋肉がざわざわすることは受け合い。ましてやジョンの自信ありげな表情や発言をセットにして見ては。

 ギタリスト兼ベーシストのバラクは神経質そうなフランス人。この手のアンダーグラウンド系バンドのギタリストとして完璧な風貌。勿論ジョンとの折り合いも悪い。女性ドラマーのナナは比較的きつさの少ない性格で緩衝材的な面がある。ちなみにこの人、俳優ではなくプロのドラマーで映画は初出演。ジャック・ホワイトやジョン・フルシアンテとの共演経験もあるようで、実力派じゃないか。プレイスタイルも独特で、なーんとなく「女ジョーイ・ワロンカー」って雰囲気も。。

 自殺未遂を起こしたメンバーの代役としてジョンをバンドに誘ったのがマネージャー兼エンジニアのドン。ステージには立たないがメンバーの一員のような描写(実際、初代キーボードでもあった)のされかたはピート・シンフィールドなどのノンミュージシャンもイメージさせる存在。精神の疾病持ちで人形にしか欲情しないというキャラ設定ながらジョンと並ぶ常識人として描写され、それだけに最期のシーンが衝撃的。

 映画とバンドの中心人物のひとり、クララはシンセサイザーとテルミンによるノイズ担当。ソロンフォルブスの事実上ナンバー2。エキセントリックな性格で、自分だけがフランクの真の理解者だと信じ、彼に対しては深い愛情と信頼を、ジョンに対しては憎悪に近い感情を抱いている。凄くいいキャラクター。入浴中のジョンと(何故か勢いで)セックスしてしまうシーンの色気の無さも白眉。

 そしてフランク。巨大な仮面を絶対に脱がないバンドのシンガーで、ソングライター。ソロンフォルブスのアバンギャルドな音楽性もコンセプトも全て彼のものではあるが、実際には意外に成功を求めたり、ジョンの音楽に理解を示したりする面も持っている。が、感覚が(音楽的に)ナチュラルに狂っているのでジョンの曲にアドバイスするうちに全く別物にしてしまったり、無理に書いた一般受け狙いの曲がやっぱり狂ってたり、っていう人。名前からしてザッパがモデルかと思ってたら、かぶり物設定含めてフランク・サイドボトム(ちゃんと聴いたことない)をベースにダニエル・ジョンストン+キャプテン・ビーフハートなんだってね。

 メンバー紹介だけで長くなっちゃったな。
映画の主題はフランクの正体、何故彼が仮面をかぶっているのか、かぶらなければならなかったのか、というところのように紹介されているけど、どうも違うんじゃないかという気がするし、仮面(内向性)と才能の関連についてはラスト付近で両親によって語られるとおりだ。


 むしろジョンのエゴの問題が主軸的に描かれている印象が強い。うだつの上がらないミュージシャンがカリスマ的なアンダーグラウンドバンドに加入し、大きな成功を夢見る過程でエゴが増大していく。レコーディング中にフランクに惹かれていく過程で自分がフランクをプロデュースできると勘違いを始めるジョン。「誰もがフランクにあこがれるが誰も彼にはなれない」というドンの言葉があるにも関わらずジョンは自分が対等になれると思いこんでいく。でも才気あふれるミュージシャン集団であるソロンフォルブスには彼の才能が無いコトは完全に見抜かれていて、だから最後まで決して本当の意味で受け入れられることはない。

 でもフランク自身は何故か彼の言葉を信じてしまうんだな。凡人であるジョンの、凡人ゆえの一般的感覚を取り入れることによってフランクが実は憧れる名声への近道となる、という想い。それは「成功=仮面の内に籠った心を広い世界に開放すること」への想いだったのかもしれない。

 でもそれをぶち壊すのはジョンだ。メンバーはフランクが「広い世界」に耐えられないのを知っていた。ナナに「狂っているのはジョンだ」と言われるが、エゴが肥大したジョンは(自分では気づいていないが)もはや「フランクの才能を世間に示す」のが目的ではなくなっている。「フランクを利用して自身が名声を得ようとしている」ことが言外に描かれるステージシーン。浮ついたMCを率先して行い、リーダーでシンガー(とはいえ、この時点ですでにバンドは二人だけだが)であるフランクそっちのけで自分の曲からステージを始めるジョン。結局ここで、大観衆とジョンのひどい音楽に耐えきれずフランクの精神は壊れてしまうのだけど、ジョンが自分の過ちに気付くのはもっと後。


 もう一つのポイントはネットの功罪。これは身につまされた部分だ。ジョンは登場時点からツイッターをやっていて、俺同様のネット中毒。で、アイルランドの山奥でのレコーディング風景も逐一ブログとYouTubeにアップしていて、本人はソロンフォルブスという素晴らしいバンドを世間に知らしめる手段だと思っている。だけど問題はそれをメンバーに無断で行っていたことで、その是非を巡ってバンド内の軋轢は悪化する。ジョンはYouTubeの再生数がバンドの人気の証、サウンドが世間に受け入れられた証だと勘違いするんだけど、フェスのスタッフには「たいした再生数じゃない」と言われるし、観ていた連中もバンドの音楽に惹かれたわけでなく「面白動画」として見ていただけということが解る。

 結局大雑把にいえばジョンは自己顕示欲を満たしていただけで、むしろ彼のやっていたことは余計なコトだった。状況こそ違うけど、実は俺自身数年前ちょっとつきあってた人に「ブログにプライベートなコトを書き過ぎる」と言われ、結局それが関係を壊す一因になった経験があるのでこの辺は見ていてキツい気分だった。

 でもなー、男女関係ならともかく、バンドのコトになるとむしろ「発信した方がいい」って方に流れるよなー。明らかに良かれと思ってやってるし、今の時代ソレが必要だと思う方が自然だし。一概にジョンが間違ってるとも言い切れないが故に、辛い。

 ラスト、フランク抜きの3人で演ってる音楽もいいし、そこにジョンに連れられ仮面を取ったフランクが現れ、仮面無しでも今までと変わらぬ才覚を感じさせるポップで甘美でアバンギャルドなバラードを歌い出し、そこにナナ、バラク、そして暫く遅れてクララ(ちゃんとステージにテルミンとモーグを用意している!)が入ってソロンフォルブスのサウンドが復活、気付くとジョンはその場にいない、と言う流れが最高にいい。全員が本来の「持ち場」を見出すラストはハッピーエンドと言っていいんじゃないかな。

 最後に音楽の話をちょこっと。

 勿論ソロンフォルブスのアバンギャルドかつ魅力的な楽曲も素晴らしくて、我慢できずサントラまで買った。まあ、劇中で聴く程良くはないと思ったけど(笑)でも、ジョンのしょぼい曲やフランクが大衆に迎合した中途半端な曲のような「駄目な曲」を解り易く書けるだけでも作曲のStephen Rennicksの才能がわかる。この人元々建築を学んでいたと言い、アバンギャルドな音楽が作れてサントラ作れて、って要素からちょっとピンク・フロイドも想わせる存在。フランクはシドだったのか!?

2014年11月2日日曜日

Simon Phillips

あの頃結局サイモン・フィリップスはフーのドラマーだったのだ。

 ザックが途中離脱して、スコット・デヴォースが参加した四重人格ツアー。商品化されたのはスコットのヴァージョンだった。ここでの彼の演奏は、ザックに比べてもよりキースのドラミングを再現していて、アルバムを聴きなれた耳には違和感が少なかった。ザックのドラミングは、キース的なフレーズも交えつつあくまで彼自身のオリジナルのスタイルだから、必ずしも従来のフーの曲にジャストフイットするようなプレイでない場合も多々あった。だけど、誰もが「ザックはフーのドラマーとしてふさわしい」と感じていた。

 フーが結成50周年、ラストツアーを行うにあたって、ピートとロジャーは再びザックを呼び戻す。

 スコットのプレイは確かに、フーらしく聴こえるような、キースっぽいスタイルを再現していた。が、そもそもフーのメンバーに「バンドに合わせて誰かを模倣する」ような人間がいただろうか?

 だいたいにおいて、オリジナルメンバー達が完全にオリジナル過ぎるプレイヤーで、誰一人他人に合わせる気がなく、誰かを真似したり、手本にした気配さえ希薄な連中なのだ。フーはルーツが見えづらいバンドと言われるが、それはピートの楽曲も、メンバーの演奏も全て元ネタが見当たらないからだ。

 キースが死に、ケニー・ジョーンズがドラマーの座に座った。ケニーもスモール・フェイシズ初期はキースとも共通する手数の多いプレイをしていたが、80年代頃はかなりスクエアなプレイヤーだった。それが、フーに迎えられて、フーに合わせて、キース的なプレイをしたか?一部のファンに不評なくらい、ケニーは自分のスタイルを貫いた。キースの真似なんか一度もしなかった。色々言われるけど、Who Are Youくらいからピートの楽曲はケニー的(または、サイモン的)なプレイを求めていたし、それはその時代のフーのサウンドとしてケニーを含めた4人が作り出したものだった。

 俺はサイモン・フィリップスには違和感しか感じなかったけど、スコットとザックのコトを考えてわかった。サイモンも、決して自分のスタイルを崩さず、フーの中に自分のまま収まろうとした。それは今になって振り返ればフーのメンバーの条件だったのだ。ピートもサイモンにキースの模倣なんか求めて無かった。サイモンはピートのDeep Endのメンバーだったから、きっと「そのまま演ってくれ、人真似なんかするな」って言われた筈だ。そして、そうじゃないとジョンやピートと拮抗したプレイなんかにならないのだ。俺の好き嫌いなんか関係なく、サイモンはフーの新ドラマーとして求められる仕事をしたと思う。実際、彼のプレイをキースの後任としてふさわしいと感じるファンも数多くいたのだから。彼はこなしたし、受け入れられていたと思う。

 ちょっと勘違いされやすい文章になっちゃったけど、スコット・デヴォースの仕事を貶める意図もない。スコットにここで求められるのは「ザック、またはキースの代役として四重人格ツアーを成功させる」プレイだった筈で、スコットは「代役でありサポートメンバー」としての仕事を完璧にこなした、と思っている。

 ピノもジョンの真似なんかしてないし、ザックもそうだ。オリジナルメンバー以外ではケニーが唯一の正式メンバーであり、サイモンもピノもザックも一応サポート扱いではあるけど、準メンバー的に見られる理由はそこにある。フーであるからには自分でなければならない。誰かの真似であってはならない。自分自身がその誰か(Who!)であることが重要なのだ。