2014年9月30日火曜日

マッスル・ショールズ 黄金のメロディ

 音楽ドキュメンタリーに何を求めるか、という話になっちゃうんだけど、こと「あるスタジオについての物語」という話になるとどうしてもミュージシャン目線では「サウンドの秘密」みたいなものを期待してしまう。「マッスル・ショールズ 黄金のメロディ」もそういう映画だと思って興味をもっていた。

 俺の前に観に行った友人が二人いた。一人はバンド仲間のベーシストで、もう一人は映画も音楽も好きな普通の(って言い方も変だが)ファン。先にベーシストに話を聞いていたのだけど、彼は「期待したのとは違う感じ。なんかお涙頂戴的な部分があって」のような感想を語っていて、つまり上記のような目線だったわけだ(ってか、この映画観たいねって話はこのバンド仲間と話していた)。

 もう一人は「グッときた」という。自分はセンチメンタルな人間だから、と前置きしたうえで「土地の力とか軋轢と和解とか、っていうサイドストーリーに胸を突かれる」という感想。

 俺はもともと「サウンドの秘密」的な期待を持っていたからベーシストの感想に引きずられ、まあ10月に横浜で観ればいいかな、くらいに思っていた。が、後からもう一人の感想を聞いて、視点を一旦ニュートラルにすることが出来て、俄然すぐにでも観たくなってしまった。

 そういうワケで早速、最終日前日となるシネマート六本木に滑り込んだ。さあ、俺はどちらの感想に近いのか……?

 俺は馬鹿だし、もう少しシンプルな音楽ファンなので、オープニングで「ダンス天国」が流れた瞬間もうどうでもよくなってしまった。既に踊りだしたい気分であり、漠然と「あ、この映画は楽しいだろうな」と思っている。ちなみに最初に俺がグッと来たのはこのオープニング、ウーリッツァーのロゴが大写しになった瞬間だった。

 事前情報からすると映画は「マッスルショールズサウンドの秘密」ではなくどちらかと言えば「リック・ホール物語」であることは解っていた。話は必ずしも時系列順ではないが彼の生い立ち、挫折と奮起を縦軸に進んでいく。特に「別れ」という要素が目立って描かれる。妻との死別、幼少時の弟の死、母との別れ、父の死。ジェリー・ウェクスラーとの決裂、スワンパーズの「裏切り」……ホールはそれを全て糧にして進んできた。七転び八起きと言うか、転んでもタダでは起きないというか。

 そう思っていると、随所に「マッスルショールズという土地の力」を強調する証言が挟まれる。これはホールとは関係ないこと。「河が歌う」「ここで録音するとファンキーになる」なるほど、サウンドの秘密なんかない。マスターテープを(クラシック・アルバムズ・シリーズのように)細かく聴いたってマッスルショールズの秘密なんか解らない。秘密は土地にあるんだから。この土地に、リック・ホールがいたからマッスルショールズサウンドは産まれた。そこまでは解った。

 そう思っていると(またか)、フェイムスタジオから引き抜かれたスワンパーズによる「マッスルショールズ・サウンド・スタジオ」の物語も並行して語られる。結局こっちのスタジオにも土地の力は働いているし、ホールの下で学んだ優秀なミュージシャンがいる。彼らの物語も(ホールほど細かく描写されないが)また、マッスルショールズ物語なのだ。(フェイム所属だった初代のバンドについては、あまり語られない。彼らはマッスルショールズを離れたからだ)

 こういう縦軸を、ジェリー・ウェクスラーやウィルソン・ピケットらの生前のインタビュー(これがまたこの映画の為に撮られたように見事にハマってるのだけど)も含め、ホールやスワンパーズ、ダン・ペン、スプーナー・オールダム(映画サントラ用の新曲も彼が書き下ろしている)、フェイム・ギャングのメンバー、それに亡きデュエインに代わって語るグレッグ・オールマンらスタジオの「当事者」たちの証言、フェイムやジャクソンストリートのスタジオで録音したアレサ・フランクリン、クラレンス・カーター、パーシー・スレッジやストーンズ、レーナード・スキナードのメンバー、ボノ、アリシア・キーズら後追いだけどマッスルショールズに憧れた人々の言葉で補強していく。どのエピソードも素敵で楽しくて時に大変そうで、終始こっちはニヤニヤして観てしまうのだけどこのへん言いたいこと全部言ったらただでさえ長い文章が大変なことになる。

 ラスト前に、70年代にフェイムを去ったスワンパーズがホールと和解するシーンは流石に感動的だ。もうこのくらいになるとさ、Quoのドキュメンタリーでも思ったけど「生きてるうちに再会できてよかったねえ」って思っちゃう。で、フェイムでアリシア・キーズがスワンパーズをバックに、勿論コントロールルームにはホール(エンジニア兼任!)で、ディランの曲を歌う。ここでロジャー・ホーキンスのスネアが入った瞬間に鳥肌立ったんだけど。この一切衰えない現役感。ああ、終わった物語を回顧してるんじゃないんだ。マッスルショールズサウンドは懐かしむべき過去のものじゃないんだ。
 
 別れて行った人々が再び交わり、過去と現在が交わり、そういえばレーナード・スキナードも(クリームのヴァージョンでだけど)Crossroadをカヴァーしてたよね、って言ったところでエンドロールに「スワンパーズ賛歌」でもあるSweet Home Alabamaが流れる。俺はもう半踊りでスーパーご機嫌モードで聴いてたんだけど、最後の「お説教」のあとのリック・ホールの笑顔も最高だったなぁ。

2014年9月29日月曜日

シンプル・シモン

 にわか映画ファンがビビッドな色彩に惹かれた映画三部作、グランド・ブダペスト・ホテル、リアリティのダンス、そしてシンプル・シモン。カラフルな絵面に惹きつかれる虫のような感性の俺は予告編観た段階で簡単に興味を持つ。まあ、なんかスラップスティックな気配があって、女の子がいきなり水に突き落とされるシーンとか見ちゃったら「あ、楽しそうだな」とは思うよね。

 アスペルガー症候群という病気を扱った映画ということもあって、それゆえの周囲との齟齬や軋轢はテーマの大きな一部を占めてはいるのだけど、その辺が重く描かれることもなく、基本的にはポップな音楽とポップな色彩と共に軽妙でハッピーなラブコメとして制作されている。観た人が100%幸せになれる、かは知らないけど、まあ楽しくて素敵な映画だったと思うよ。

 シモンが下手糞なドラムを叩く導入部なんだけど、このタムを交互に叩くフレーズが「ツァラトゥストラはかく語りき」のつもりだというコトは友人に指摘されるまで気づかなかった。わかんねえよそんなもん!
 で、よく見るとこのドラムPremier製。英国のメーカーで、ケニー・ジョーンズとかキース・ムーンとかオスカー・ハリスン(OCS)とかスティーヴ・ホワイト先生!とかみんなコレな。あとシモンの腕時計がLambretta Clothingのターゲットマークの奴だったり、そもそも円形モチーフ(シモンは異常に円に拘る)が多用されてるのも含め、偽モッズ/ポップアート好きの俺には細かいツボ。一週間の朝食が次々映るシーンもちょっとCreation Soupのジャケっぽくてニヤニヤする。
 ってかさー、この腕時計俺がすごーく欲しかった奴なんだよね。だからすぐ気付いたんだけど。まあ、俺は基本的に腕時計しないから無駄になると思って買わなかったんだけど。どうでもいいですね俺の話は。Premierのドラムも欲しいんだけど。

 いつものごとく早速の閑話休題。

 登場人物はいい奴ばっかり。兄ちゃんとイェニファーは言うに及ばず、シモンのバイト先の同僚ボンクラトリオも、上司のダーツ(下手糞)おじさんも愛らしく描かれているし、イェニファーの友達もやかましいんだけど凄いいい奴だし。

 でも特に「結構いい奴」として注目したいのは見過ごしがちだけど兄ちゃんの最初の彼女、フリーダ。シモンの性格に耐えきれず兄ちゃんと別れてしまうんだけど、セックス中に乱入されるまでは努力していたし、それに別れた後、シモンや兄ちゃんが訪ねて来たときの描写が決して門前払いではないし、特に兄ちゃんとの再会の描写は、ここでは関係修復に至らないけど何らかの心の繋がりを残してるようにも見えて、映画終了後の世界では上手くよりを戻したりしてないだろうか、とか思ってしまうのはやっぱりこのいい奴過ぎる兄ちゃんにも幸せになってほしい、という思いからなのかなあ。とにかく、彼女が「シモンを受け入れられない心の狭い人」という描かれ方じゃないのは凄く好きな部分。

 ボンクラトリオといえば、一切描写は無いが、なんとなく彼らもアスペルガーなのでは?と思わせる部分もある様な気がする。端役をカリカチュアライズしているだけ、というのも本当だろうけど、三人其々に何かに対する異様な執着をみせていたりとか、シモンと共通する要素も感じる。もしかしたらあの清掃会社はそういう若者の受け入れを積極的にやっている会社、という設定でもあるのかも。

 閑話休題は持ち味です。

 で、イェニファー。ギャルっぽい一面もありながらサブカル趣味っぽくて明るくて社交的でおおらかでだけど繊細な面もあって……ってパーフェクト設定過ぎないか!っていう、しかもそこに嫌みがなくて可愛くてな(好みじゃないけどな)。もう天使かよ!っていう(笑)勿論シモンに対する接し方も完璧。にしたってあの酷いファーストコンタクトからその後も殴られるわ水に落とされるわ散々な目に逢いながらも怒りもせずむしろ惹かれて行ってしまう、いや「惹かれていった」と言うよりも最初からなんだろうな。

 最初は彼女の「面白がり」の部分から。そこから徐々に、この子いい子じゃん、一緒にいていい感じじゃん、っていう、なんかそのスムーズな心の流れがなー。最後シモンに「好き」と言うのも、恋なのか単なる仲良しなのかその中間なのか、微妙だしはっきりしないけどどれでも無いかもしれないけどまあ好きなんだからいいじゃん、っていう、なんてーの、丁度いい感じ。アレよ、パシリムのマコとローリーの「おでこコツン」と同じニュアンスよ。

2014年9月28日日曜日

ゴスペル

 すっきりしない感じのドキュメンタリーを観た。

 ゴスペルという短編ドキュメンタリーは、主に日本人の視点で、どうしてキリスト教国でない日本でゴスペルと言う音楽が受け入れられているのか、という点に迫った内容なのだけど、観た感想としては「結局よくわからない」というものだった。

 前半では、日本でゴスペルが流行りだした切っ掛けと、その伝播について、日本のクワイアの指導者たちのインタビューで語られる。その流れで、実際にクワイアに所属し、ゴスペルを歌う若者たちの短いインタビューも挿入されるのだけど、彼らは口々に「自分はクリスチャンじゃないし、宗教は解らないけど、歌で自分を表現してみんなで感動したい」ようなコトを言う。コレはある種意図的に、「本質(=信仰)が抜け落ちたゴスペル」という特異な日本ならではの状況を見せ、それを空虚なものとして描いている、という風に俺は解釈した。

 で、この後米国で活躍する日本人ゴスペル歌手の活動の様子とインタビューや、教会所属のクワイアが施設で歌う様子、それに米国の、幼少時からゴスペルに触れてきた女性のインタビュー、そして再び国内の指導者たちへのインタビューで、信仰と音楽の関わりや意味と言ったものの重要さを見せていく。

 で、この流れで「だけどね」という調子で、序盤の「信仰無きゴスペル」を肯定していくような方向性に持っていくのだけど、ここにいまひとつ説得力が無い(ちょっと具体的にどういうことを言っていたのかは忘れた)。多分、指導者たちも結局「本当は信仰が重要なんだけど」っていう部分を持ったまま話しているからだと思う。

 終盤には前半部の若者たちのインタビューが繰り返される(同一の映像を含む)のだけど、監督の意図はここで、前半部で空虚に響いた彼らの言葉が活き活きした音楽賛歌に聴こえる、というようなものだったと推測しているのだけど、残念ながら、俺には結局空虚なまま、前半部での印象と全く変わらないものに聞こえた。

 結局Amazing GraceやOh Happy Dayを歌うシーンが一番印象的だったかなぁ。

2014年9月27日土曜日

アレハンドロ・ホドロフスキー

  ある程度映画というものを観はじめると、ってかこの時期にちょろちょろアップリンクとかジャック&ベティとか行ってると、どうしても視界に「ホドロフスキー」という名前が目につくようになる。DUNEってアレだよなぁ、スティングが出てたって奴だよなあ、程度の知識しか無い俺でも、なんなくは気になり始める。気になるとじわじわと、収集しないまでも漠然とした情報が入ってくる。丁度新作を上映してる時期だったし、ツイッターでも多少は話題に上ったりしている。サブカル的には基本の一つのようだ。なんとなく、観てみようかな、と思い始める。


 残念ながらその新作「リアリティのダンス」ももう一本のドキュメンタリー「ホドロフスキーのDUNE」もジャック&ベティでの上映が終わってしまっていたのだけど、渋谷のアップリンクでやっていたので、当時丁度会社の夏休みで時間もあったし、「リアリティのダンス」を観に行くことにした。しかもアップリンクだけ無修正版だという話もあったので、折角だから。

 ちょっと前にAV監督の二村ヒトシの著作を読んでたんだけど、そこで彼が書いていた「インチキ自己肯定男」という概念、劇中のホドロフスキーの父はそういう人物に映った。共産党の幹部で、家では権威的に振る舞う「男らしい男」、でも実際には小さい人物(必ずしも否定的意味でもなく)であることが、大統領の暗殺に失敗してからの転落人生というかたちでじっくり描かれる。

 そんな彼が救済されるのがストーリーの軸。結果として徹底した無神論者が神の愛に目覚める、とはいえその神も、本来的にはキリスト教の神なんだけどむしろ「ホドロフスキー母=神」に見える部分もあったりして、まあ実際のところホド父を救済してるのは殆どオペラで喋る不思議な力を持った神秘的で巨乳の女性として描かれるホド母だ。

 テーマはホドロフスキー自身の自伝的な内容と言うのだけど、実際には現実の自伝と言うより、過去を理想の形でリブートしたような内容になっているという。まあどう見ても現実的じゃない、ファンタジック(かつグロテスク)な映像は作り物感満載。色彩のビビッドぶりがそれに拍車をかける。美しさと悪趣味の紙一重の同居はまあ、サブカル分野の人間のツボなんだよなあ(良くも悪くも)。フリークスの役者たちも、無修正でちんこ出すのも、放尿も、何らかの問題提起的なものと言うより「出したいだけ」という感じが伝わってくるのもまた、良い(ちなみに実際には余所でも無修正だったらしい)。

 コレを観てしまったら「DUNE」の方も気になって仕方ない。日を改めてアップリンクに再訪した。

 こちらは70年代に頓挫したホドロフスキー版DUNEの回顧ドキュメント。ホドロフスキー本人は勿論、関わるはずだったプロデューサーやスタッフのインタビューと、各映画会社に渡されたという絵コンテを中心にして構成されている。

 先ず何よりね、もうアレハンドロお爺ちゃんの元気なこと。そして楽しそうなこと。ギラギラした目つきで生き生きとして当時のコトを語るホドロフスキーの姿を観てるだけでも楽しくなるし、惹き込まれる。そりゃあ、この顔で「おまえは魂の戦士だ!一緒に映画を作ろう!」って言われたら、まあ無条件に乗っかるかどん引きするかどっちかだよね(笑)

 そうやってスタッフや役者をどんどん引き入れていく様を彼や、引き込まれた当事者たちの証言で観てるとそれだけでちょっとしたストーリーに見える。仲間を集めて、巨大な悪に立ち向かうわけですよ。相手は映画会社なんだけどさ。しかも負けちゃうんだけどさ。

 でもね、それを、駄目だったことも含めて「全てイエスだ!」って、例の目つきで力強く語るホドロフスキー、このシーンがハイライトだな。スペイン訛りなのか「イエス」が「じぇす!」って聞こえるんだけど、真似したいね。なんか逆境で、でもそれを受け入れて前進しなきゃいけないときに言いたい言葉。「じぇす!」前向きになれそう。「じぇす!」

 絵コンテ、アートボード集?についても触れたい、というか、もうコレだけで「DUNE」って作品だからさぁ、出版してほしい!限定豪華本で2〜3万とかでいいから出してほしい!凄いよあれは。お爺ちゃん自身言ってたけど、アレがもう映画だよ。うん、欲しい。欲しいなぁ! 

2014年9月25日木曜日

ひなぎく

 モッズ畑の人たちが観るようなことを言っていたし、俺自身予告編をたまたま観て気になっていた、60年代のチェコ映画。60年代のチェコ、東欧ということを考えると、勉強すべき背景も色々ありそうだったけど、予告編を観た範囲で感じたポップさをよりどころに、あくまでそういうフィルムとして観ることにした。

 全体的にはストーリーらしいストーリーがあるでもないのだが、大筋はあって、(おそらく)10代の(おそらく)姉妹が三大欲求の赴くままに好き勝手行動し、大人を翻弄する、というもの。だが時系列や空間移動はでたらめになっていて、それは手法として使われたコラージュ的な感覚が映画内の世界そのものに適用されている感じ。映像はあくまでシュルレアリスティックなイメージの断片。カラーだったりモノクロだったり、単色だったり版ずれ(って言わないな。映像だとなんていうの)っぽい映像だったり。同じ(ように見える)画面が別の手法で繰り返されたりもするし、いかにも60年代のアート映画という印象は、ある。

 主人公姉妹(本当に姉妹なのかははっきりしない)は終始よく笑うし、よく呑み、よく食べる。金を持っていそうな男を漁って奢らせて追い返し、芸術家っぽい男を誘惑し、自宅では惰眠を貪る。生産的なことは一切しないし、常に迷惑だし、下品だし、当時のチェコでこれを「自由」として描写したのかな、と思うと、それは一面ではあっても、本質的にはやはりちょっとだけ違う気もする。

 ひたすら快楽を求める彼女たちの行動に、中盤突然暗雲が立ち込める。ストーリー的な何かではなく、あるタイミングから画面に急に死の香りが立ち込め始める。「仕事をする大人たちから彼女らの姿が見えない」という描写は勿論若者と大人のギャップを描いているのだろうけど、どうしても俺の目には彼女らが生きているように見えなくて仕方が無かった(「生きてる、生きてる」なんて言いながら歩くのは生きてない証拠じゃないか)。

 そこからラストに向かう流れにはもうポップな空気も無く、どれだけ楽しげに無人のパーティ会場を蹂躙してもそこに感じられるのは不穏な空気のみ。他者も登場しなくなる。そして、その傍若無人な行動を打ち破るのも会場への大人の闖入ではなく、突然室内のシャンデリアから海(湖?)へ投げ出されるという理不尽な瞬間移動。

 自分たちの行動を反省した彼女たちは「いい子になろう」とパーティ会場を必死で元通りにしようとする。ぐちゃぐちゃの食材や割れた食器を並べ直して「きれいになった」会場でテーブルに横たわると、再び「シャンデリアの審判」を受けて突然映画は終わる。勿論、シャンデリアに押しつぶされて死んだという解釈はシンプルなんだけど、俺は前述の通り彼女たちはとっくに生きていない(死んでいるかは解らない)と思っていたから、エンドロールの爆撃映像へ繋がる(時代/社会への?)絶望感の表現のように思えた。

 もう少しシンプルに言うなら、孫悟空がお釈迦様の手のひらの上を飛び回ってたあれかなあ。若者が自由を謳歌してるように見えても、それは所詮閉塞した社会のほんの隅っこで、そしてその先に見えてるのは絶望っていうような……うーん、解ってないのに難しいこと考え過ぎた感はあるけど。でも、現代に対する自分の実感と共通するものもあったのはホントなのよね。

2014年9月24日水曜日

グランド・ブダペスト・ホテル

 ストーリーより画だった。とにかく画面に惹きつけられた映画だった。入れ子構造になった四つの時代(といっても、ストーリーが進行するのは一つだけ)でスクリーンサイズが変わっているのに気付かなかったのが一番後悔してる点なんだけど、そんなのも含めてとにかく画作りへの拘りは物凄い。いや、画への拘りが無い映画監督なんかいないんだろうけど、それにしても、って話だ。

 シンメトリーだとか、平行移動だとか俺が書いても今更ど素人が何を言ってやがるって世界の話だけど、色彩と相まって、あまり奥行きを感じない画面に真正面からのアングル。なんか紙芝居みたいな絵面だな、と思っているとどう見ても本当に書き割りの映像(ホテルの外観など)が出てきたりして、またその辺がなんとなくテリー・ギリアムのアニメーションを彷彿とさせたりもして、そういうところにはどうにもニヤニヤしてしまう。

 ホテルの外観のピンク、ホテルマンの制服の紫、エレベーターの赤、ビビッドな色合いが印象的に使われているかと思うと悪役は徹底的に黒。シンプルで解りやすい配色。なかでもケーキ屋のバンのピンクが印象深いのはこの期に及んで微妙に呑気なラブラブ感が漂うせいか。

 そうなんだよね、基本はサスペンスなのに、主人公たちはどこか呑気と言うか、緊迫感が無い。常にユーモアを忘れない飄々とした人物像、っていう描き方とも少し違って、むしろ意図的に緊迫感をそぎ落としてカリカチュアライズした感じを狙ってるのかな。会話はなんとなく軽妙だし、死者が出ても適度にスルーされる。

 で、このキャラクター性の嘘臭さが絶妙に画面の嘘臭さとマッチしてるのね。で、余分なものがそぎ落とされてる分スピード感が凄い。紙芝居をめくっていくように、ぱっ、ぱっ、とストーリーが展開していく。ミステリー仕立てではあるけど謎らしい謎はなくて拍子抜けするくらいシンプルなオチに繋がるし、とにかく観ていてストレスが無い。ギャグやびっくり箱の配置も絶妙だし。

 本編がファンタジックで嘘臭い理由として、入れ子構造そのもの、ってのも考えられる。最初に書いた四つの時代は、内側から順に、1930年代の本編、グスタヴ・Hとゼロ・ムスタファの物語。それを若き日の作家に年老いたゼロ(ユリイカ読むまで気付かなかったけど確かに30年程度で老け過ぎだ)が語る1960年代のシーン、それを年老いた作家が書物として書く1980年代のシーン、そして作家も亡くなったあと、墓地で少女がその書物を読む現代(?)のシーン。
 本編はつまり少女が読んでいる物語だ。それは実際の出来事をゼロが語り、それを更に時が経てから書物に書き留めるという流れの中で記憶は歪められ、物語としては脚色され、少女の想像のなかでイメージ化された結果が、あの可愛らしい画面と荒唐無稽な物語、と考えるとほら、辻褄が合ってしまう。

 こんなにカラフルでスピーディーで楽しい映画なのに、「孤独」ってのもテーマなのかな、とも思う。グスタヴ・Hにしてもゼロにしてもアガサにしても天涯孤独の身で、ご丁寧に、ラスト近くにはある意味唐突にゼロがグスタヴやアガサを失う経緯を語ったナレーションまで入る。本編のストーリー的にはゼロが彼らを失う必要は無い(特にアガサの死はストーリーとは無関係だ)。だけどゼロが作家に向き合うシーン、そして最後にひとりグスタヴ・スウィートへ「消えていく」シーンへ繋がるためには必要なんだろう。とはいえ、作家も一見孤独気に描かれているけど80年代のシーンでは子供が出てきたりして、そうでもないのかもしれないけど……

2014年9月23日火曜日

チョコレート・ドーナツ

 一本の映画(勿論それは他のなんでもそうなんだけど)で、自分の感覚が大きくひっくり返ることもああるのだなあ、というお話。ごめん、「大きく」は言い過ぎ。ひっくり返り方は小さい。でもなんていうかな、剥がれないシールの端っこに引っ掛かりが出来た、っていうか。このシールはもう剥がせる状態になった。

 チョコレート・ドーナツ(なんとなくテーマに沿ったAny Day Nowよりキャッチーな邦題の方が好きだ)を7月に観た。思うところは沢山あって書ききれないし表現力が無い。大きいところを書けるレベルでざっくりと書く。

 まず最初に思ったのは「ああ、俺は圧倒的にマジョリティ側の人間なのだなあ」ということ。主要人物の誰にも感情移入できない、というか映画の内部に身の置き所が無いことに気付いたのはワリと早い段階。出来るだけ「マイノリティ」の側に身を置きながら見ようとすればするだけそのギャップを痛感するし、自分の立ち位置が差別側に圧倒的に近いことに気づいてしまう。紙一重だ。「多分俺は差別する側の人なんだな」と思わざるを得ない。

 「minoradio」なんて名前使ってる以上、俺の中二病は自らをマイノリティの側に置きたがってるわけだけど、所詮若干マニアックな趣味嗜好(しかも浅い)を持ってるにすぎない。それによって差別されたり生活を脅かされるような「マイノリティ」とは程遠い。そこに気づかざるを得ない気持ちに持ち込まれたのが、大きいことの一つ。

 俺の同性愛やゲイカルチャーへの「理解」は所詮ポーズ、かっこつけ、ってかもう「理解」って言葉の時点でアウトなんだけど。悪ふざけで「ホモ」っていう言葉を使う連中と揉めた時期もあったけど、あんなの所詮偽善にすぎず、実際そう言いつつも俺自身は「ガチへテロ」を名乗ってたりとか、正直、以前から男性同士のセックスシーンを見るのは嫌いだったし、まあ、その程度。

 ところがね、この映画でのポールとルディのベッドシーン、まあ露骨にセックス描写があるわけではないんだけど、それは凄く素直に観れたし、当り前のラヴシーンとして感じられたのね。これがシールの隅っこをカリカリやり始めた段階。

 んでまあ、ある日、あるタイミングで突然「あれ?もしかして俺、気分とか条件が整えば男の舐めることくらいできるんじゃねえの?」っていう(下品ですいません)、何の脈絡も根拠も無い思考が現れて。勿論突然そう思っただけで、本当にできるかどうかは全然わからないし、今のところ積極的に挑戦してみたいと思っているわけでもないんだけど、少なくとも以前にはほんの僅かにでも感じたことのない気持ちだったし、また、この気分はこの一瞬じゃなくて現在も続いている。「ガチへテロ」が(自称)「ガチとまでは言わない程度のへテロ」になった瞬間。シールの隅っこが僅かにめくれた。

 これ完全に映画をダシにした自分語りじゃないか。レビュー的要素、無いな。

 せめて音楽の話を書く。原題はディラン(というよりザ・バンド)のI Shall Be Releasedの歌詞から。歌詞は全体に重要で、劇中で、特にルディが歌う(口パク含む)曲はストーリーと密接に絡んでいる(勿論字幕も出る)。I Shall Be Releasedは終盤で歌われるんだけど、アレンジがかなりしてあったから一瞬この曲だって解らなかったな。

 音楽ジャンルの使い分けが徹底されていて、ゲイクラブでルディと仲間たちが(口パクで)歌い踊るのはディスコミュージック。でもコレはルディが本当にやりたい音楽じゃなくて、後半のナイトクラブで歌うのはジャズ(ブルーズ)で、詞も内面を掘り下げるようなものになっている。で、マルコの母と愛人のセックスのBGMが一貫してT.レックス(笑)この辺の使い分けがまあ類型的というか、良く言えば解りやすいのだけど。にしても後半の一番最悪のシーンで俺の大好きなBuick Mackaneが使われてたのにはショックだったぞ(笑) 

 最後に一番の余談として、ルディとポールがエリック・アイドルとジョン・クリースに見える瞬間が何度かありました(笑)