
主演、監督、脚本のギヨーム・ガリエンヌの自伝的内容。幼少のころから(おそらく成人して)恋人と出会い結婚を決意するまでを描く。ガリエンヌは母親と自分自身を二役で演じる、というところは基礎知識。元々舞台だったものを映画化したもので、随所に(狂言回し的に)舞台のシーンも登場する。
たまたま前日観たニンフォマニアックも、主人公の幼少時から現在まで登場し、また、シャルロット・ゲンズブール(71年生)とガリエンヌ(72年生)が同年代(ついでに言えば、俺も)なんだけど、ニンフォマニアックの方が主人公を子役、若いころ、現在の3人で演じてるのに対し、こっちはコメディというコトもあり幼少時から全てガリエンヌ自身が演じる。だから40のおっさんが高校生くらいの子供に、高校生役で混じることになり、女性を演じるよりこっちの方がインパクトが強い、ってのが変な面白さ。女性役は上手過ぎて違和感無いんだよ。

ネットで見た評のひとつに「最後ゲイじゃなくて良かったという結論として描かれている」とあったんだけど、それは違うんじゃないか、と思った。まず、ガリエンヌ自身は自分のことをゲイだと思ってはいなかった、というところが重要。この辺は結構複雑なんだけど。
ガリエンヌの自己認識は「自分は女の子であって、大好きな母親みたいになりたい」というところから始まっている。とはいえ、自身が肉体的に男性であることも理解はしている。しかし、所謂GIDとも違って、肉体と精神のギャップに悩んでいるというより「自分が女の子らしいと母親が喜ぶ」という認識から、半ば無意識にそうたち振舞っている。

そこの思い込みの強さが「女の子であろうと言う意思によって女の子でいる男性」というポジションを作りだす。若いころのガリエンヌは男性に恋するんだけど、それは「自分は女の子だから男の子に恋する」というある種のパターン認識である節が強い。だから、同級生に「オカマ」と呼ばれるのは否定するんだけど、母親に「ゲイだ」と言われてしまうと急にハッテン場に出かけてみたり、カウンセリングを受けたりする。それは「ママが言うならゲイなのかもしれない」という想いと「ママが欲しかったのはゲイではなくて女の子である僕」という思いが交錯したものだったんじゃないかと思う。
だから、最後に彼が喜んでいるのは決して「ゲイでなくてストレートである僕」ではなくて「自分の本来の姿を見出したこと」に対するものなのね。だから逆に、色々あって自分がゲイであることがはっきりしていたとしたらそれはそれで堂々と母親に宣言して、それを喜ぶラストになってた筈なんだよ。「自分探し」って言い方をすると陳腐になっちゃうんだけど。
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