2015年2月8日日曜日

ゼロ・グラビティ

突然遡って去年観た映画を紹介する。

 映画初心者の俺が、映画に慣れるべく興味の度合いと、なにより上映時間を基準にして選択したのが当時話題だったゼロ・グラビティだった。あんまり深いテーマも無さそうだったし、とにかく映像に浸る映画なのかな、と思って観に行ったのだけど。

 まあ確かに、この映画の観るべきところは映像だった。そりゃね、後に色々、その筋のプロからは突っ込みが入っていたようだけど、それはいいじゃない。映画なんだから、映像的に「魅せる」為にはある程度のリアリティや考証は犠牲にされて当然だ。リアルな映像を作った結果退屈な内容になったら何の意味も無いのが「映画」であってそれはドキュメンタリーにも適用されると思っている。リアルだけ求めたければ一生ニュースだけ見てなさい(こればっかりだな)。

 例によって例のごとく閑話休題。まあ俺のブログそのものが閑話という話もあるがそれは置いておこう。

 CGにしたってどうやって撮ったんだコレ、みたいな映像が続出する凄い映像には勿論息を呑む。特に3Dだと凄過ぎて、ああこれは90分が限界だな、と思わされた。疲れちゃうんだよ。コレで120分以上見せられたらぐったりしてしまう。スペースデブリがこっちに飛んでくるシーンとか、恥ずかしながら一瞬目ぇつぶったしな(笑)まあコレは、パシリムやゴジラ以上に3Dで正解だった。IMAXで観たらもっと凄かっただろうな、って思うけどね。自分が宇宙空間に存在する目線になったのかな?

 決してストーリーが無い映画ではない。というか、予想以上に深い内容だったと思う。散々言われる「ゼロ」じゃなくて「グラビティ」(原題:Gravity)なのだ、という話は置くとしても。

ライアンとマットが助け合って生還して、その過程で愛が芽生えて……的なストーリーが一般的に期待されるそれだろうし、実際前半ではそういう展開を想起させる流れが出来ていく。が、マットは中盤で、ライアンを助けるための犠牲となる。マットの死は描写されず、というか恐らく劇中の時間レベルでは彼は宇宙に放り出されたまま生き続けていることが予想され、その孤独かつじわじわ迫る酸欠による死を想像するだけでもこっちは辛い気持ちになる。デブリに顔面を貫かれて(死体とその扱いの描写がリアルかつクールでしかも怖い)即死したもう一人のクルーの方がある意味では幸せだったのかもなあ、などと思ってしまうのも人情というもの。

 ライアンはマットを失って、その後も数々のトラブルに見舞われて自暴自棄になったりもするのだけど、地球の一般人による無線通信(言語さえ通じない)と、酸欠状態で見たマットの幻影との対話を経て「生きる」ということを見直すようになる。「亡くした娘と再会する」「マットを失って一人で帰還する意味は?」というレベルを超えて、「生きるために一人で帰還する」という意識へ。

 これを社会の荒波を乗り越えて一人で生きていく女性の姿を描いた、と言ってしまうと短絡的で陳腐過ぎるんだけど、ってーか言いたいニュアンスは全然違って。色々なものを失って、心を通じ合わせかけたマットさえ失ったにもかかわらず最後に「最高の旅だった」というのは奥が深すぎる。誰かの為でもない、誰かと共にでもない、自分が自分の為に一人で生きることに喜びを感じている。一人で生きることに対する決意と希望、喜び。所謂「自立した女性」的なアレとは違うんだよ。うん、なんていうかなー、難しいけど。通じて欲しいな。

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