2014年10月31日金曜日

サンシャイン 歌声が響く街

「サンシャイン 歌声が響く街」は正直何で見たのかよくわからない。スコットランドが舞台でポップミュージック系のミュージカル、なんかハッピーな感じがする、あとは英国制作繋がりでFRANK観た直後だった、とか色々条件が重なって、うっかり観てしまった感じ。

 なんてーかねえ、要するに普通の男女のカップル(壮年夫婦含む3組)が普通に恋をして(既に結婚していたりつきあっているもの含む)普通に軋轢や障害が起こって、普通に壁を乗り越えて、普通にハッピーエンド、そういう内容の映画って要するに俺には向かない。ここでバルフィとかシンプル・シモンを引き合いに出すと誤解を受けるとは思うんだけど、やっぱりハッピーに暮らせるのが当り前の人々が当り前にハッピーになりましためでたしめでたし、では引っ掛かりが無さ過ぎる。それならそれでどれだけエンターテインしてくれるのよ、って訊けば「ミュージカルです。歌って踊ります」えーっ?それだけぇ?

 主役と言えるカップルが3組あって、まず今年銀婚式の壮年夫妻、その娘と、彼女の兄の親友(軍隊で一緒だった)、映画の序盤ではその兄は独り者だけど、妹の同僚を紹介されて付き合い始める。で、まあ持っているドラマの量からして今書いた順番の重みでストーリーは進行している、ように見える。

 最初の40分は彼らのハッピーな姿、ハッピーになっていく姿を延々描写し続け、何も展開しない。兄貴に彼女が出来るシーンが強いて言えば展開だがパーティで知り合ってあっという間に付き合うから展開らしい展開にも見えない。だらだらとハッピーに暮らし続け、そんなもんわざわざ映画にするなよ、と思う。後半の波乱への伏線としてお父さんの隠し子(娘)登場のシーンが出てくるが、重要なシーンとは言え退屈を紛らわせてはくれない。

 中盤、両親の銀婚式でようやく、しかし唐突に話は動く。隠し子から受け取った彼女の「両親」の写真を妻の方が発見してしまい、その場で夫婦の危機が訪れる。娘は娘で彼氏の公開プロポーズを断ってしまい、彼をからかった男と喧嘩が起り、そこに兄ちゃんがついでに加勢してそれを止めようとする彼女に手をあげかけてしまいついでにこのカップルにも軋轢が発生する。取ってつけたような急展開を取ってつけた流れにこっちは呆然とするのみだ。

 さて、仲直りのパートだ。兄ちゃんカップルは切っ掛けが些細だったから拍子抜けするくらいあっさり仲直りする。だいたいこのカップル揃って瞬間湯沸かし器でつまんないコトで喧嘩してあっさり別れ話になって簡単に復縁する。現実にはこういう馬鹿いっぱいいるけど、映画で見ても鬱陶しいだけだ。妹カップルは仲直りには至らず、妹はアメリカへ、彼氏はやけくそで軍に戻る、という分かれっぱなし展開を見せる。そして両親は、夫が唐突に卒中かなんかで倒れたのを機に看病からの仲直り、という典型的な問題解決抜きでの終結を見せる。と言うわけで、普通はここで妹カップルの仲直りに主眼が移ると思うじゃない。

 しかし、ここで兄ちゃんカップルにもう一回危機が。ある意味コレが最大のどんでん返しだった。

 またしても些細な会話から仲違いをしてしまう二人。出ていく彼女を追いかけ、なんとか捕まえて誤解を解こうとする(というより言い訳をする)とまたしてもあっさり怒りが解ける。そして喜びの歌とダンス!これぞミュージカルの醍醐味!大団円に相応しく、周囲を巻き込み大々的なダンスが……って、えー?あなたたちのシーンで終わりなんですか!?明らかに重みを置かれていた両親夫妻でも、妹カップルでもなく、引き立て役的に存在しているように見えた兄ちゃんカップルで大団円!?

 ちなみに妹カップルは、手紙のやり取りするシーンこそ出てきて時を経た後の再会を匂わせるもののハッピーエンド的描写は無いまま終わる。まあ、そういうリアリティなのかもしれないけど、この流れとミュージカルで半端にリアリティ出されても……

 お母さんの「顔」の演技は素晴らしかったです。人間、ハッピーな時は綺麗でも荒んだ時醜くなるじゃん。アレが演技で出せてるのは、凄いと思った。あと父ちゃんのセリフにケルト系民族っぽさを感じた。以上。

2014年10月30日木曜日

Kenny Jones

フーを最初に見たのはライヴ・エイドだったし、それで好きになったんだから俺にとってケニーは全然「フーに合って無い」ドラマーではない。シャープでタイトなドラミングは少なくとも80年代には凄く格好良かった。Won't Get Fooled Againのケニーのフレーズはいまだに俺がコピーするときにも混ざり込んでくる。

 それからキースのプレイを知ったわけだけど、勿論フーのドラマーとしてキースは圧倒的に凄くて、ああ、これが「本来の」フーなんだ、というのはちゃんと感じつつも決して「ケニーじゃあやっぱ駄目なんだな」と思ったことは無かった。無かった、というか、現在に至るまで一度も無い。

 それでも、ケニー自身の60年代、スモール・フェイシズ時代のプレイを聴くと80年代の彼はどうしてあんなに端正なプレイヤーになってしまったんだ?と思う。この頃のプレイを聴くとキースにも負けないくらい手数も多いし荒々しいよね。フーの頃は、やっぱりあの時代のフーの音楽に合ってはいるけど、キースの頃の曲を聴き比べた場合の「普通さ」は時にどうしても気になってしまう。特に16分音符でタムを普通に回す系統のフィルが結構多くて、コレがまあ、言ってしまえば野暮ったいんだな。

 ケニー・ジョーンズの特徴はやっぱり「どうしようもなくダサい」ということだと思う。とにかく野暮ったい顔つきもさることながら、ドラム叩いてる時のイマイチ堂々としない情けない感じとか、スモール・フェイシズ以降はどうしても目立ってしまう体躯の小ささとか、なんか変なパーマっぽい頭とか、どうしても佇まいがダサい。佇まいがダサい人がヤマハのドラムをスクエアに叩いていたらまあ、普通は格好悪く見えるよな。やむを得ん。

 でも、そんなケニーが物凄く格好良く見えた瞬間がフェイシズでのI Know I'm Losing Youのライヴ映像だった。しかもドラムソロ。ケニーのドラムソロなんか格好いいわけがないと思ったら、特別に難しいフレーズは叩かないし、ある意味ケニーのイメージ通りの「ダサい」フレーズのソロなんだけど、なんだか妙に格好いいんだよね。グルーヴだけでソロを構成してる感じもいいし、ダサいなりに完全に的を射たフレーズ(いや、実際にはフーでもそうなんだ)を叩き切る感じ。格好いいケニーを見たのはあの時だけだし、あれだけは素直に認める。格好いい。

2014年10月29日水曜日

Santana / Soul Sacrifice

旧ブログでもやったネタだけども。

 そこかしこで散々言っているけど、俺にとってサンタナとはマイク・シュリーヴとグレッグ・ローリーである。シュリーヴとローリーのバンドにカルロス・サンタナっていうギタリストがいるらしいよ、くらいの扱いであり、流石にそれは言い過ぎだ。

 と言うのもやっぱりサンタナへの入り口はウッドストックでのSoul Sacrifice、というよりこの曲のドラムソロだったからだ。いや、正確にはライヴエイドのPrimera Invationで、この曲も大好き(勿論ローリーもシュリーヴもいない)なんだけど、アルバムをちゃんと聴こうと思ったのはSoul Sacrificeだったし、この曲を聴いた瞬間、Primera Invationはこの曲の焼き直しだというコトに気づいてしまったのだからむしろ第一印象の方が分が悪い。もっと言うと80年代のドラマー、グレアム・リアはシュリーヴに顔がそっくりでプレイは彼をもう少し雑にした感じであり、人間まで焼き直し感があってそれはあまりにも失礼な物言いじゃないか。

 サンタナ1stのレガシー・エディションには初期ヴァージョンも入っているし、勿論スタジオ録音もあって、この曲は結構色んなヴァージョンが聴ける。初期ヴァージョンははっきり言って出来がよいものではない(ドラムソロ以外もね)。スタジオ版は端正に纏まっているけど、やっぱりこの曲の神髄はライヴだ。

 YouTubeではタングルウッドでのライヴも観れるけど、やっぱりウッドストックのヴァージョンは白眉。ドラムソロのメリハリはこっちの方が圧倒的だと思う。俺にとっての三大ドラムソロの一つだけど、それはこのヴァージョンに適用される。この映画でサンタナは一躍注目されたっていうけど、それはやっぱりシュリーヴの功績が大きいんじゃないかな。他のテイクもいいけど、やっぱこの時のシュリーヴは別格だ。

 

2014年10月28日火曜日

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

 アメコミ、特にマーヴル・コミックスは好きなんだけど、マーヴル映画は一個も見たことが無かった。そんな俺がマーヴル映画初体験するのがXメンでもアヴェンジャーズでもなくて、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーとは。

 チーム的にもキャラクター的にも予備知識はほとんどない。ヴィランイメージの強いドラックスが主人公側にいる?とは思ったけど、見た目が俺の知ってるドラックスとは違ったから同名の別人(マーヴルのキャラにはしばしば存在する)だろうと思っていた。ネビュラやサノス、ノヴァが出てくるのも知らなかった。むしろ興味をそそったのはサウンドトラック。スターロードことピーター・クィルの母の形見のカセットの収録曲が俺たちの琴線触れまくりの70〜80'sヒットなのだ。しかもメンバーがならず者ぞろい。ちょっと破天荒なノリが期待できる……と思って、仕事帰りにふらっと近所のIMAXシアターに出かけた。

 IMAXの巨大なスクリーンに対峙するのが俺と知らんおっさんの二人(三人と思ったらもう一人が出入りしてただけだったらしい)だけ、という客の入りには驚いたが、まあ周囲を気にせずノリノリで観れるというコトで良しとする。なんせ俺の意識ではコレは音楽映画なのだ。コトによっちゃあ踊る心づもりで来ている。

 オープニングからいきなりI'm Not In Loveだからもう、なんてベタなんだ!ってなったけどまあアメリカ映画だしな。舞台は1988年、曲はピーター少年(9歳)が聴いているウォークマンから流れているのだ。9歳でこの曲はシブくないか。意識して聴くと、捉えどころのない曲だよなぁ。


 ピーター少年は母と死別するやいなや何の説明も無く突如現れる謎の円盤に深い理由も無く連れ去られる超展開なんだけど、勿論この時点で形見のウォークマンと今わの際に受け取った包みは持ったまま。そのまま、やはり何の説明も無く26年の歳月が流れる。この辺のいくらでも説明できる流れを全部省略する粗雑さがアメリカン。この26年で地球のテクノロジーはテープの時代を終え、CD、MD、データへと移行している。恐らく宇宙のテクノロジーはもっと進んでいるはずなのだけど、26年後のピーターは26年間壊れなかったウォークマンと26年間ワカメにならなかったテープを聴き続けている。特別なものだからな。ソニータイマーが働かなかったのは奇跡としか言いようがあるまい。それともスペースソニーがサポートを続けているのだろうか。

 妄想休題。

 いや、ストーリーの解説しても仕方ないんだよ。シンプルな馬鹿映画だから。あらゆる映画と同じく、色々あってオーブを盗み出したり刑務所に入ったり特に計画も無く大暴れして脱獄したり色々あって仲間になったりオーブを売りに行ったりそれが大変なものだと解ったり仲間割れしたり絆を深めたりオーブが敵の手に渡ったり宇宙を守るヒーローになることに目覚めたり巨悪と闘ったり因縁の対決があったり絶体絶命に陥ったり仲間の犠牲で窮地を逃れたりオーブを取り戻したり辛くも勝利を収めたり英雄になったり軽口を叩きながらいずこへともなく旅立ったりするような普通のSFヒーローもののストーリーなんだよ。

 以上、完全なストーリー解説でした。以下、ポイントを挙げる。

 木が可愛い。可愛いし、圧倒的に役に立つし、異常なくらい強いし、万能だし、可愛いし、いい奴だし、可愛いし、可愛い。複数の人から「ちびグルートのフラワーロックを発売すべき」というアイデアを聞いたが、完璧すぎるアイデアだし、多分それスタッフも考えてた。または逆にフラワーロックから着想を得たか。商品はI Want You Backの音源付きで発売すべき。ちなみにこのシーンのグルートの顔の造形、明らかにジャクソン5時代のマイケルをモデルにしてるよね。

 「普通の」とは言っても主人公チーム全員が刑務所で知り合ったという基本的に犯罪者チーム。冤罪とかじゃないからね。明らかに犯罪でぶち込まれた奴らだから。やることは滅茶苦茶だし場当たり的だし力技だしまとまろうと言う気が全然無いし。ヒーローになる動機も正義の為というより要するに宇宙がヤバいコトになるとみんな死んじゃうじゃん、っていうシンプルなものだし。小悪党が巨悪の前で死にたくないから宇宙を守る、っていうのもまあ、極端ではあるのだけど。

 以前このブログで扱ったパシリム、シンプル・シモン、バルフィなんかにも共通する「ラヴシーンが薄い」要素がこの映画も。最初のガモーラへのキスは未遂に終わるし、終盤ではむしろピーターよりドラックスといい雰囲気にさえ見える。そもそも最初のキス(未遂)は愛情というより殆どナンパに近いノリだし、宇宙に投げ出されたガモーラを救うシーンでありそうなもののそれもなく。多分メンバー間に恋愛感情は無さそうなのが素敵。

 ヨンドゥが意外に美味しいし、いいキャラ。と思ったら役者が監督の親友らしいんだな。地上戦の異常な強さも開いた口がふさがらなかったし、ひたすら糞野郎の悪党を演じつつ最後偽のオーブ掴まされたのに気付いた時の笑顔!アレが良いんだ。「小僧、やってくれたな」的な。ホントに親代わりだったし、愛情を持って接していたんだろうなあ、と感じさせるシーン。

 コレクター(オーブを買い取ろうとする人物)が出て来たとき、なーんとなくパシリムのハンニバル・チャウっぽいな(似ているわけではない)、と思っていたらラストで爆笑する羽目に。やはり映画はエンドロールで席を立ってはいけない。

 ところでI Want You Back、ピーターのテープを模したサントラ「最強ミックスVol.1」(国内盤は出ていないがこの名で呼びたい)に収録されているけど、劇中設定だとVol.2の収録曲の筈だよね。本来のVol.1&2の全曲目を知りたい。Ain' No Mountain High Enoughも入ってるし、Vol.2は少し古めのR&B系の選曲だったのかな……と妄想するのも楽しい。ってか母ちゃん、あなたは死の床で一生懸命テープを編集していたのか。どんだけ音楽マニアなのだ。友達になりたい。

2014年10月26日日曜日

VHSテープを巻き戻せ! / ナニワのシンセ界

 渋谷で「VHSテープを巻き戻せ!」を観てから約2ヶ月、同じ気分になるだろうな、と思いながらも、題材への興味に打ち勝てず「ナニワのシンセ界」を観た。同じ気分になった、が。

 「VHS」は要するにノスタルジーを90分語り続けるドキュメンタリーだった。「自分たちはVHSで育った」「ホームビデオ文化が花開いた」「DVDになってない作品も沢山ある」異口同音に主張や思い出が繰り返し。さっき聞いたような主張が脈絡無く再登場する場面も多く、90分が長く感じる。飽きるんだよ。

 確かにデジタル化されずに消えた(ゴミのような)作品も山ほどあるのだけど、残念ながらあらゆる意味でビデオテープにはDVDやBlu-rayより優れた面が無い。アナログレコードとは違うのだ。彼らはひたすらノスタルジーを語り、そこから新たな文化が産まれる可能性は全然見えてこない。

 VHSでオリジナル(ゴミ)作品を撮り続けるおっさんが登場する。「VHSは手軽だから考えずに撮れ!撮り続けろ!」と主張するが、残念ながら今やデジタル機材の方が遥かに安価で、手軽だ。

 「シンセ界」も作りは似通っている。こちらはノスタルジー要素は抑え目にしてはあるものの、代わりに「大阪の文化」の主張が強く出ていて、やはり同様に似たような話題が繰り返し登場し、飽きていく。

 致命的なのは、大阪の、伝統に根ざした面や、人と違うこと、面白いことをしたがる性質、ハブとして様々な文化が集まってくる土壌、という部分を語るのに、東京との比較が具体的に為されないこと。彼らは「東京と違って」と語りたがるワリには、実際に東京のシンセ文化はどうなのか、という部分が一切見えて来ない。だからその辺の主張は空虚に見えてしまった。

 シンセ好きによるシンセ好きの為の映画、って側面は良し悪しだろう。基本的な説明はすっ飛ばして中核から入るから、この映画を切っ掛けに「シンセ界」に入り込む可能性は皆無に近い。完全に内側の人間だけがターゲットなのだな。だから音楽の話題は殆ど登場せず、あくまで機材の話に徹する。YMOだけ少し出てくるのには苦笑したけどね。

 とはいえ、VHSとの大きな違いは、アナログシンセサイザーは現役の機材、文化であるということ。彼らには「これを使ってやりたいこと」があって、それをやっている。この映画はアナログシンセサイザーの「今」を語っているのであって、ノスタルジーの話では無い。この差は大きい。

 だってさ、なんだかんだで観ててシンセのつまみグリグリ回したくなったもんね。久々にVolca引っ張りだして遊ぼうと思ったよ。

2014年10月21日火曜日

Paul McCartney & Wings / Red Rose Speedway

 最初に買った時、豪華ブックレット(ヌード付き)に演奏メンバーの詳細なクレジットがあったのが嬉しかった(すでにそういう性格だったのね)んだけど、気になったのは2曲にデイヴィッド・スピノザとヒュー・マックラケンがクレジットされてたこと。当時すでに彼らがRamで参加してたセッションマンなのは知ってたんだけど、何故かこの2曲を当時のアウトテイクだと認識できず、何らかの理由で呼び寄せて参加させたって思いこんだのね。デニー・レインが参加してないんだから気づいてもよさそうなものなんだけど。

 勿論この2曲(Get on the Right ThingとLittle Lamb Dragonfly)はRamのアウトテイク。多分気づきづらかったのは、Ramが直前のアルバムじゃなかったからだと思う。Wild Lifeに収録しないでこっちに入れた理由が解らなかったのね。

 そういう意味で考えてもまだ謎があるのは、そもそもRed Rose Speedwayは2枚組になる構想さえあったにも関わらず、わざわざRamのアウトテイクを引っぱり出していること。2枚組ヴァージョンの曲目は解っているんだけど、その時点でこの2曲は含まれているから、Ramで捨てたのを勿体なく感じていただけなのかもしれないけど。

 まあ、どちらも確かに良い曲だ。俺がこのアルバムで最初に気に入ったのがGet on the Right Thingだし、ウチの妹はLittle Lamb Dragonflyをフェイヴァリットに挙げていたことがある。少なくとも我が家では大人気の2曲だった、と言って間違いない。要らないデータだけどな。

 アルバム全体の空気感もWild LifeよりRamに近くて、多分レコーディング方法も近かったんじゃないかな。前作はウイングスのお試し録音的な色彩の強い一発録り、今作は再び、ベーシックをラフに録ってそこにオーバーダビングを施す形式。ただ、今回はバンドの為、ポールのコントロールが行きわたりきれない部分もあったと思われ、Ramの時より幾分ラフな仕上げになる。

 あと、Ram Onの二つ目のヴァージョンでBig Barn Bedの予告がされてるのもRamとこのアルバムの連続性を感じさせちゃう一因だよね。予告しといてWild Lifeじゃなくてこっちに入れちゃう、っていうのが、変な人だよなぁ。もしかしたらポール、リンダ、サイウェルで録った原型ヴァージョンみたいなものがRamの時点であったのかもしれない。

 そもそも、ポールが「曲がいっぱいある」っていうときは楽曲のレベルを無視してものを言ってることが多くて、実際このアルバムの2枚組ヴァージョンで聴くと、感触がLost McCartney Album(McCartney IIのオリジナル)に近くなる。インスト曲や妙にラフな曲がいっぱい入ってるんだよね。その片鱗は完成版でもLoop (1st Indian on the Monn)や、ラストの小粒メドレー(いや、俺は大好きだけど)に現れている。

 そういう意味では、好き嫌いは別としてもMy Loveはまさしく「画竜点睛」だったと思うんだよね。完成度って意味で明らかに飛びぬけてて、アルバム全体がピリっとする。だからってLive and Let DieやHi Hi Hiまで入れないあたりのバランス感覚も素晴らしいな、とも思うんだけど。

2014年10月19日日曜日

The Yardbirds

 ブルーズ至上主義者のエリック・クラプトンはヤードバーズにとって邪魔ものであった、少なくともバンドの進化の妨げになる存在であった、という解釈。

 エリック時代に残された音源の大半はライヴ。それ以外は2枚のシングルと、64年までに残された数曲のデモ録音のみ、ということになる。スタジオ、ライヴ共に基本的にブルーズ、R&Bマナーに則ったスタンダードな演奏で、勿論エリックの志向にも沿ったものだったと思われる。シングルのGood Morning Little Schoolgirlはかなりポップなアレンジになっているのだけど、これに対してエリックが異論を唱えた、という話も無いから、ある程度の割り切りはあったのかもしれない。

 ただ、おそらくバンドはもっとメジャーに、ポップに、そしてアーティスティックな方向に進みたかったんではないか。ポップとアーティスティックは矛盾しないのだけど、ブルーズを追求すること=アーティスティックな姿勢、と思っていたギタリストはこれを良しとしない。かくして、バンドはエリックを切り捨ててでも「ポップでアーティスティックな」グレアム・グールドマンによる新曲For Your Loveの録音を敢行する。

 ここから3枚、グールドマンの提供曲によるシングルを連発するのだけど、Heart Full of Soulからはエリックよりずっと柔軟で、ロック的なギタリスト、ジェフ・ベックを迎えることになる。それによってバンドはエリック時代に行っていたブルーズ/R&Bの模倣という領域から抜け出すことが出来たんじゃないかと思う。

 後に10ccを結成するグールドマンの曲はこの時代から既に所謂「ひねくれポップ」の味わいを出していて、結構狂っている。それを受け止めるにはエリックでは不十分だった。そして、そのエッセンスをバンド側が吸収していく過程はEvil Hearted YouのB面、Still I'm Sadを経て、必殺の代表曲Shapes of Things、そしてOver Under Sideways DownとアルバムRoger the Engineerへと、刻々進化するオリジナル曲に表れている。

 ここまでのオリジナル曲全てにマッカーティとサミュエル=スミスの名がクレジットされてることも重要(アルバムの収録曲は全員の共作名義)。なんかこの時代、ベックが曲書いてるとか勘違いされてそうな気がするけど、実はこのあと、ペイジ加入に至ってもバンドの中心人物はレルフとマッカーティなんだよね。Shapes〜がレルフ/マッカーティ/サミュエル=スミスって名義なのは少し驚いたな。

 さて、ヤードバーズを追い出された(という認識は誰にも無いだろうが)エリックはと言えば、ジョン・メイオールのバンドに加入、取り立て観るべきところのない凡庸なブルーズの模倣作品をリリース。しかし、自分が抜けたバンドがRoger the Engineerをリリースしたのを見て「これではマズいのではないか」とようやく気付いて、ポップでアースティックなロックバンド、クリームの結成に至るのだ。こう解釈しないとクリームのデビューシングルが「包装紙」ってコトの説明がつかないのよね。